●更新日 09/01●


チベットと中国・真田と徳川の奇妙な関連


そもそも、六文銭を旗印にして、常に死を意識して戦い続けた真田家と、チベット仏教の死生観は似ているのだ。思い返してもらいたい、あの聖火リレーを拒否した善光寺に浮かび上がった、6個の女性器のマークの落書き、あれを六文銭に見立てたとしたら、真田家の怨霊が復活したと言ってもいいのかもしれない。因縁の連鎖は永遠に回るのだ。

更に、驚くべき事に、聖火ランナーたちの誕生日が、全て真田VS徳川の戦いの節目の日と合致していくのだ。まず、第一走者の星野仙一の生まれた日である1月22日は、徳川家康の埋葬場所を変えた日なのだ。1617(元和3)年 1月22日、一度静岡に埋葬された家康の遺体が日光東照宮に改葬された日、つまり、家康の怨霊が北の聖地・日光から徳川幕府を守護し始めた日なのである。まさに、江戸幕府の霊的な基盤が固まった日であり、第一走者という設定とも合致するような気がする。

次に、最も注目された萩本欽一は、5月7日に生まれている。この日も意味深である。1615年5月7日、この日大阪夏の陣に参戦中の真田幸村が、死亡した日なのだ。チャリティ・人権の象徴である欽ちゃんが、大国の理念に負けた。その欽ちゃんの誕生日が、真田幸村の死亡日とは出来すぎではないか。

もう一人の話題のランナー・谷亮子は9月6日生まれだが、 慶長05年(1600年)9月6日、この信濃にて真田昌幸、幸村の篭る上田城の攻防で、真田軍が徳川秀忠軍を打ち破った記念すべき日である。チベット騒乱で死んだ人々の替わりに、谷亮子が中国勢を打ち破ってメダルを獲得してくれるのであろうか。

北島康介の生まれた日は、9月22日である。思い返せば、上田城の攻防で始まった、天下分け目の対決・関ヶ原の合戦は、最後は西軍の中核であった島津の逃亡で終結する。実は、島津義弘が関ヶ原より脱出し、堺より乗船したのは、慶長5年9月22日なのだ。水路での逃走日とは、北島にとって縁起がいいのかもしれない。

最後に福原愛の生まれた日は、11月1日である。これは、徳川が真田など豊臣方に対して初めて勝利した日である。徳川家康は、天正14年(1586年)11月1日、京都に赴いている。これは朝廷から征夷大将軍に任命されるために京都に参内したのである。現代の徳川である中国と仲の良い福原愛にとって、相応しい誕生日ではないだろうか。



山口敏太郎



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