廃火葬場 |
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FC 三重
同火葬場は同じ敷地内に墓も建てられていて、時折人の出入りもある場所であるが、焼場および待合室はさびれており、全く手がつけられていない状態となっている。 室内には、炉の扉が開け放たれている。 以前には火葬する死体を乗せていたであろう寝台は、半分引き出されており、灰も多少あるようで粉っぽさが残っている。 ろうそく立て等の仏具もそのままの状態で残っており、異様な雰囲気が漂う。月明かりの中、手探りで物色するが、背筋に冷たいものを感じ、直ぐにでも引き返したい衝動に駆られる。タバコの吸殻等も落ちており、興味本位で同所を訪れた者も多いと思われる形跡が確認できた。
河芸町役場「企画情報課」によると同火葬場は昭和40年代の初め頃から終わり頃までの数年間しか稼動していない。町や付近の住民は、あやしい不審な噂の絶えないこの廃火葬場の取り壊しを希望しているようであるが、国からの補助金で建てられた関係もあり、直ぐには取り壊せないそうである。 この為、ほとんど手付かずの状態でその姿を残している。 同火葬場の周辺一帯は、以前は山林であったが平成10年頃より宅地開発が始まり現在は山が切り開かれ、周辺には住宅が建ち並び、グランド等も設けられているが、同地区は広範囲にわたり墓も点在していたらしく、中には無縁仏も多かったようである。 昭和初期には、同地区の森に入り込んだ男の子が行方不明になり、神隠しとして言い伝えられ、現在もなお当時を偲び、公園として切り崩すことなく残されている丘も存在している。 若者死亡説について聞き込みを続けるうちに、以下の2件については同様な証言も多く、心霊スポットとしての知名度を高めているものと思われる。 <証言1> 平成3年頃某月、暴走族に属する怖いもの知らずの若者3名が、同火葬場を訪れた。 ドアを破って焼場や待合室に入り室内を物色したが、心霊現象が起こらない事が当然の事のように、荒らしたまま火葬場を後にした。その翌日、そのうちの1名が交通事故を起こし病院に運ばれたが、まもなく死亡。 また、数ヵ月後には、もう1人が病気により死亡した。 3名のうち2名が死亡した事により、残った1名の若者はお払いを受け、その後全く人が変わったかの様に更生した。(元暴走族後輩からの証言) <証言2> 昭和63年夏、若い男女5人のグループで肝試しと称して深夜に同火葬場へ向かう計画が立てられた。 当時はまだ宅地開発が進んでおらず、道は狭かったが迷うような経路ではなかった。彼らは人から聞いた経路で森の中へと車を乗り入れた。 若者達は約1時間、森の中を迷走したが火葬場へ辿り着く事が出来ず、その日はあきらめて引き返し、それぞれ帰路についた。しかし、その後そのうちの女性1名が走りなれた帰り道で交通事故を起こした。その数日後には同グループの男性も交通事故を起こし、病院に運ばれたが間も無く死亡した。 先に事故を起こした女性はそれ以降、この件については口を閉ざしたままだそうだ。(事故を起こした女性のいとこからの証言) その他証言の中には「火葬場を訪れた後、車に戻るとフロントガラスに無数の手の跡が付いていた」「写真を撮ると霊が写る」などもあり、怪現象を経験した人は多いようである。我々が現地を確認に出向いた際「このあたりかな?」という事で車を降り、歩き出した。 すると畑仕事でもしていた格好の老人が道端に座っており、我々は火葬場について聞いてみた。 しかし耳が遠いのか、老人は指を差し「この先」と言うのみであった為、証言を取ることをあきらめて、先へ進んだ。 火葬場を確認し帰る際にマムシを発見。小さかった為、恐れず近寄ってみるがかなり弱っているようにも見え、我々は話をしながらその場を離れた。が、ふと考えると先の老人がいたのとちょうど同じ場所である事に気づき「まさか道案内役として老人の姿に…?」と笑いながら話し、帰路についた。 ちょっと不気味ではあるけれど…。後日、我々は霊感が強いと自負する人物(K氏)を連れ、再び同所を訪れた。 車を降りたK氏はゆっくりと歩き出すと敷地内へ入る手前で立ち止まり、真剣な眼差しで辺りを見回す。 間も無く振り返ったK氏は笑顔で「大丈夫」と告げたが、その後もK氏は敷地内へは足を踏み入れる事は無かった。 何が「大丈夫」なのか我々には理解出来なかったが、一通り撮影を終え、帰る間際になり「森の方から違和感を感じた」と告げられた。 ドキッ としたが、K氏が足を踏み入れなかったのはそこにあったようだ。 それぞれの情報提供者からは『町営火葬場』にまつわる怪現象の原因と思われる具体的な事件などは浮上しなかったが、火葬された人の中には無念の死を遂げた人もいると思われる為、いたずらで近寄る事はしない方が賢明であろう。 |