東京時計製造株式会社 |
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FC 仙台青葉
本日、改めて『幽霊マンション』を訪問して見ると、地元の女子高生5人が、敷地の中に入って行くのを目撃。すかさずその後を追うことにした。すぐに追いつき、どこに行くのかを尋ねてみたところ、やはり『幽霊マンション』と言うこと。そこで我々は、話を聞きながら同行することにした。 女子高生の話によれば、上の映像(中学生等と入った)場所は社宅で、その下にある、三棟の建物が、本物の『幽霊マンション』であるという。 *通称『幽霊マンション』 まずは早速どの様な霊、もしくは心霊現象が起こるのか等を以下の様に質問してみた。
以上 その様な話を聞いた我々調査員は、その部屋まで案内してもらおうと、同行を求めた。女子高生五名の内二人は了解してくれたものの、残りの三名は怖いということで、先に帰ってしまった。 しかたなく了解してくれた女子高生二人と調査員二人の計四 人で問題の部屋へ入ることにした。 まず、辺りを見回すことから始めたそのとたん、調査員の一人が何かをみつけて声を上げた。 「何だこれは!???」 そこにいた全員が、振り向くとそこには・・・ 『幽霊マンション』の横壁の一部。この壁一面に映る無数の小さな手形は子供の様な小ささで、我々調査員の手と比較した次の映像を見て頂きたい。 これで見る限り、およそ半分位の大きさと言う事が判って貰えるだろう。 子供のと思われる赤い手形が、白い壁に幾つも残されているのは不気味な光景である。 いったいなんの意味があると言うのか。 さて、いよいよ問題の部屋へ・・・ 入り口は草木で覆われていて、人の侵入を拒んでいるかのようにも思える。 そこで真っ先に目の前に飛び込んできたものは・・・ 突然目の前に現れたこの天井の手形は、赤いスプレーで書かれた誰かのいたずら であろうが、この問題の部屋にあると、いたずらと解っていても、気味が悪い。 これを見た女子高生達は「キャー!」っと声を上げた。我々調査員はその声にも驚かされた。 次に見たものは、カメラ等で撮影すると、霊の姿が映ってしまうと言う、問題の鏡である。 霊が映ると言われている鏡だけに、さすがに不気味な感じがする。 しかし、残念ながら今回、その霊の姿を映し出すことは出来なかった。ここは改めてもう一度調査することにして、我々四人は、次の問題地点である看護婦見習いの霊が出る部屋があるという、二階へ上がってみることにした。 階段は玄関のすぐ右側にあり、荒され、あちこち壊れた部屋の様子に反して、見た目もしっかりしており、そこだけ常に人が通っているかのように、綺麗であった。 その階段を一段一段上るごとに静まり返った部屋の中には『ギシ、ギシ』と言う音だけが響く。 二階に上りきると、少しばかりの廊下があり、その先に左右向かい合わせに部屋がある。右側(道路側)の部屋は陽当たりがいいせいか、特に何も感じなかったが、看護婦見習いの霊が出るという左側の部屋は、陽も当たらず、ひんやりとしていて、ただそこにいるだけで、背筋がゾクゾクする。ここに来て、女子高生二人から、さらに新しい情報が聞けた。 何と、 「今いるこの部屋の窓から、女の人が覗いていたのを見た先輩がいる」 と言う事である。 窓はいつも開いていて、表からたまたま、この部屋の窓を見上げたその先輩は、その女の人に睨まれたという。一度顔をそらし、もう一度その窓を見上げると、そこにはもうその女の人の姿は無かったという。不思議に思ったその先輩は部屋の中へ入り二階へ上ってみたが、やはり女の人の姿は無かったという。 看護婦見習いが覗いていた窓を見て解るとおり、窓の殆んどが、どこからか伸びてきたツルで覆われ、まるで霊の存在を隠すかのようにも見える。 残念ながら、ここでも霊の存在を確認することはできなかった。 今回、霊の姿を確認(と言うより見えないだけなのだろうか…。)する事は出来なかった。 女子高生も用事があるらしくお礼を言い、その場を後にした。 問題の建物の近辺を聞き込みすることにした。 聞き込みをしていると以前、学校の校長をしていた七十歳の老人に会う事が出来た。 聞き込みの結果、判明内容は以下の通り。 其の一:『東京時計』の廃工場を現在会社の倉庫として使っている会社がある。 其の二:会社は『青葉精密』と言い、プラスチック製品を作っている。 以上である。 この他には、とくに気になる情報は聞けなかった。 しかし、時折目にする『青葉精密』の看板。会社が『東京時計』の隣にあるので、当然、何か繋がりがあるのではと、少し調べてみることにした。看板は大分くたびれているが、かなりの数である。調べていくうちにこの『青葉精密』は仙台工場で、いわゆる支店である事が判明。本社は、亘理郡山元町であるという。 今度は、その山元町に行ってみることにした。 山元町で何人か話を聞いていると、以前『青葉精密』でアルバイトをしていた事があると言う、二十九歳の会社員(男)から話を聞くことが出来た。 そこで何と、驚くべき話を耳にした。 話によると、当時の『青葉精密』の社長は既に亡くなっているが、あの『幽霊マンション』のある村田工場に材料を運んだ帰りに、亡くなったらしい。 もう少し、詳しい話を聞いてみる事にした。 流れはこうだ・・・。 元『青葉精密』社長はいつも通り、村田工場への配達を終え、帰路についた。村田町から大河原を通り、角田市方面へ抜ける『郡界トンネル』を通過。その付近で人身事故を起こすが、気付かずそのまま走行。その後しばらく走行して気が付いた時 には人が車に引っかかった状態で死亡していた。慌てた元『青葉精密』社長はその引きずっていた人をはずし、そのまま逃走。 山元町の本社近く迄戻り、車で自殺を図ろうと近くのブロック塀に激突。一度では死に切れず、今度は山元町浅生原箱根五十七番地にある墓地のブロック塀に激突したが、今度も死ねずに、バックしてもう一度塀に激突し、死亡した。 この撮影を終えた後、我々調査員は、元『青葉精密』社長が自殺を図った墓地のお寺の住職に会って、話を伺うことが出来た。 お寺の住職との会話・・・。
※事故現場は彼岸なのに花も飾られてない。ここ何年か、家族や親戚などがきた様子もなく、寂しい現場となっている。 住職も初めは、拝んでくれるように頼んだが、今では連絡も無いそうである。 夕方、薄暗くなったところでまた村田町にある『幽霊マンション』に戻り、改めて調査することにした。 見た感じでは、いつもと変わらぬその建物だが、我々調査員は、何かが違うことに気が付いた。今日は、やけに人(幽霊マンション訪問者)が多い。 早速、数えてみる事にした。 午後5時34分・・・高校生と思われる男女七名 午後5時36分・・・高校生男子六名 午後5時37分・・・高校生らしき男子四名 午後5時39分・・・高校生と思われる男子三名 午後5時45分・・・高校生男子五名 午後6時00分・・・付近巡回の為パトカーが巡回に来た。 その後、中に入っていった高校生達が、バラバラと逃げて行くのが見えた。 結果:高校生風の男子・・・22名。 高校生風女子 ・・・ 3名。 これを見れば分かっていただけると思うが、短時間の間にこれだけの人がこの『幽霊マンション』に訪れるのである。 時間的にはやはり、夕方の薄暗くなった頃の方が本番のようだ。 巡回のパトカーが来た為、問題の鏡をもう一度撮影する事が出来なかったので、翌日に改めて撮影することにした。 『幽霊マンション』3号棟の鏡 と、二階の窓。 問題の二つの映像だが、今回もカメラに霊の姿を収めることは出来なかった。しかし、何も映っていないからと言っても、さすがに不気味な場所である。 それともただ見えないだけで、他の人には見えているのかも・・・。 その後の調査で、 『青葉精密』と『東京時計』とはまったく繋がりは無いことが分かった。しかし私達の知らない世界で繋がっていたのかもしれない・・・・・。 6.調査を終えて 村田町の『幽霊マンション』の噂話は、地元ではかなり有名なスポット地として知れ渡っている。 すぐ近くには、荒れ果てた公園・神社(何故か東京時計神社!?)がある。 また、工場・社宅・寮と敷地もかなり広い。問題の寮の建物には、ツルが生い茂り、かなり不気味な雰囲気をかもし出している。3号棟に住んでいた見習い看護婦が自殺をし、その霊が現れると言われているが、今回の調査において「霊」の確認は出来なかった。しかし、隣接する工場の元社長が、村田町から帰路の途中に事故を起こし、自殺している事実を掴むことが出来た。それも、何度も車で壁に突っ込んで死んだという事実。 もし、行ってみようと考えている方は、無事に帰ってこられるように十分に注意をしてほしい。 なお、車で行った人はほとんどが事故を起こしていると言う噂があるため、徒歩で行く事をお勧めする。 7.参 考 資 料 更生会社 東京時計製造株式会社 1975年、インフレと不況が深刻化するなかで、横浜地裁は2月15日、東京時計が申請していた会社更生法の許可を決定した。地裁が更生法開始決定を下した背景には、村田、本社の両組合(現村田支部、川崎支部)に結集した組合員とその家族が展開した署名運動(更生手続き開始の早期決定に関する要請)と街頭宣伝活動が、決定的役割を果たしたことはいうまでもない。特に村田工場組合の職場と生活を守ろうという素朴な気持ちから発した会社再建のための諸活動は犠牲的かつ献身的であり、村田町民は勿論のこと、全県民の注目をあつめた。この様な活動はその後も続くが、そのころ賃金遅配の連続であったということも銘記しておかなければならない。 4月24日、組織内では組合名称変更の全員投票を行い、圧倒的多数の賛意を得て、従業員組合から労働組合になる。と同時に初のメーデー参加のため、職場討議を行い、準備は着々と進んだ。 合理化提案撤回交渉も、時には徹夜に及ぶ事もしばしばであったが、結果は必ずしも思わしくなく、5月30日には三役が横浜地裁、青山判事と面会し、交渉の経過と管財人団の考えを説明した。 平場の交渉が進展しないと見るや管財人団は、6月12日突然小委員会方式による交渉を提案してきた。交渉員は慎重に検討した結果やむを得ず応ずることに決めた。 結局6月12日より7月7日までの間9回の小委員会を開いた訳であるが、その間、かなり管財人団の意図する事が分かりかけてきた。初期の団交で「指名解雇はしない」と約束しておきながら、それに準ずるような名簿を提出してきた。 更生手続き開始以来約半年、前途に必ずしも希望の持てる交渉経過ではなかった。当然、組合員の中には精神的な動揺と生活不安の中で会社を去る人が続いた。 8月と9月にかけて前途に不安を投げかけるようにして賃金の遅配が続いた。 そういう状況の中で職場討議は勿論、代議員会と執行委員会を集中的に開き、遅を担った原因分析と情勢の検討を重ねた。 11月6日人員整理の具体案を提示し、村田工場93名、本社192名の大幅なものだった。だが、これらの処理はすべて希望退職の形で行われることは、相方合意に達していた。 その後、合理化問題の交渉は終結という形になり、12月15日から20日まで希望退職者の受付が始まった。 |