石切トンネル |
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2.石切トンネルの惨劇 当時国鉄は、生駒山を南に迂回する関西本線(現JR関西本線)と、北に迂回する片町線(現JR学研都市線)の2本の線路をすでに開通させていた。そこへ、大阪−奈良間の新路線敷設しようとしたのが大阪電気軌道(現近畿日本鉄道)であった。 当時、国鉄に対抗するには、この生駒山を一気に貫いて、一直線で奈良と大阪を結ぶしかなかった。 そして、工事には約3年が費やされ、1914年(大正3年)4月18日に全長3388mの長大トンネルとして開通した。 開通後・・・、このトンネルは大反響を呼んだ。 しかし・・・、このトンネルは工事の際、落盤事故等でたくさんの死人がでたのと、霊山である生駒山を貫いているという事で、幽霊の噂が、出始めたのだった・・・。 つまりこのトンネルの幽霊の噂は、もう100年近く前からあったわけである。 1946年(昭和21年)列車がトンネル内を走行中に火災発生・・・、28名が死亡・・・。 この時に生駒山の呪いではないかとささやかれた。 そして火災の2年後、1948年(昭和23年)に、現在では信じられないよう事故が起こったのである。 列車がトンネル内を走行中にブレーキが故障(エアブレーキのホースが破損)し、列車を止める術を失った急行列車は、生駒山から大阪平野の下りでどんどん加速・・・、その時速は100キロ以上になっていたという。 もちろん運転手は必死で復旧させようとしたり、手動ブレーキ(自動車のサイドブレーキのようなもの)で止めようとしたが、若干減速はしたものの、あまり効果はなかった。 そして・・・、大阪平野を暴走した後、先行の各駅停車に追突・・・。49名が死亡し、200名以上の負傷者を出す大惨事となった。 1964年(昭和39年)新トンネル開通につき、旧トンネルは廃止となる。噂では事故が多発したためとあるが、実際には、大型の車両を通す為に、旧トンネルでは断面が小さすぎるので新トンネルを掘ったという。 その後、一度廃止になったのだが、このトンネルの一部区間を再利用して1985年(昭和60年)に近鉄東大阪線の生駒トンネルが開通した。 1986年(昭和61年)その生駒トンネル内で、またもや列車火災が発生・・・・。 ・・・やはり、何らかの因縁があるのではないか?と言う噂は現在も続いているのである。 3.現地調査による検証 まず、昼間のトンネルの検証を行った。 トンネル入口には鉄製の門があり、中への進入が出来ないようにしてあり、また監視カメラが設置してある。 不思議なことに、トンネルに向かって右側のホームの奥に鳥居があり、昭和33年12月1日と記されていた。200名以上の死傷者を出した大惨事の10年後に建造されており、その当時はまだ、ホームとして使用していたのである。 おそらく、死傷者を祀るために建造されたのであろう。 鳥居の横の社には、東大阪線生駒トンネルの貫通石(昭和60年4月17日と記されている)が、祀られており、新トンネルでは、もうこのような大惨事が起きないようにという思いであったのだろうが、皮肉にも翌年にはトンネル内で列車火災が発生している。 その他には、目立つようなものはなく、また、不思議な現象も起きなかった。 次に、真夜中のトンネルの検証を行った。 トンネル前には、2個の小さなライトが点灯していて近くに行けば十分様子を見ることができるが、それ以外は 真っ暗闇のため、写真撮影(高感度フィルム、ストロボ使用)とビデオ撮影(夜間撮影用のWAT−902使用)を行った。 約1時間位、トンネル付近で検証を行ったが、噂にあるようなことは起きなかったので、一度、近くに駐車してある車に戻って、ビデオの確認を行った。すると、不思議なことに、液晶画面を確認しながらビデオ撮影していたにもかかわらず、何回確認しても赤・青・緑の3色のザァーザァーの画面しか写っていない。カメラの故障かと思い、別の場所を同じように撮影したが、全く問題はなかった。 さすがに、気持ち悪くなってきたが、再度、トンネル付近のビデオ撮影を行ったが、今度は、しっかり写っていたので、再び、前のビデオを再確認すると、なんとあのザァーザァー画面は消えており、きっちりとトンネル付近の映像が映っていた・・・。 その後、不思議な現象は起きなかったが、あのザァーザァー画面だけは、いまだに理解できない現象であった。 ・・・単に、機械の故障だったのか、それともやはり霊の仕業だったのか・・・? また、翌日、写真を現像したが、高感度フィルムとストロボを使用したにもかかわらず、ほとんど真っ暗で使いものにならなかった。 |
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