北区立神谷公園


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「大東亜戦争」終戦直前だった昭和二十年八月十日、B29約百機による東京都北区赤羽地区の軍事施設空襲爆撃のあおりを受け、犠牲になった人々の遺体を一時的に収容し埋めたのが、この神谷公園であった。空爆の際、付近一帯は焼け野原と化し、町にはいたる所に死体が転がりその数は三百とも四百ともいわれる。



[周辺での不吉な出来事・噂]

1. ある年、公園に通じるわずか五十メートルほどの路地の、幅四メートルの狭い道路を境にした両側の家で、人が次々に死んでいる。公害も、疫病も全く縁のない、ふつうの町である。

 (詳細)
−X年−
・ 3月17日
 Tさん宅のおばあさん
 老衰(83歳)
・ 4月 3日
 Sさん宅のおじいさん(Tさん宅の左隣)
 老衰(91歳)
・ 7月 4日
 Wさん宅(Tさん宅の一軒置いて右隣)
 交通事故死(32歳)
・ 12月
 Y1店舗宅の息子さん(Wさん宅の右隣)
 山で転落死(30歳)


−翌年−
・ 1月
 Y2さん宅(Tさん宅の向かい)
 老衰(76歳)
・ 1月
 Y3さん宅(Y2さん宅の左隣)
 老衰(70歳)
・ 5月22日
 Kさん宅(Y3さん宅の左隣)
 交通事故死(22歳)




昼間


東京都北区神谷二丁目三十番地代の一画で、ちっぽけな路地に沿った、何の変哲もない通りなのだが、わずか一年ほどの間に、十一軒の家のうち七件から葬式を出した勘定になる。町には線香の香りと読経の声が絶えなかったという。

死亡原因も、老衰だけではなく交通事故死や転落死などあり、転落死の際は登山旅行の直前まで、近所の人から「今度はお宅の番だから気をつけたほうがいいよ」と冗談のように言われ、「そんなバカなことはないですよ」と笑って答えて登山に出掛け、事故にあったということである。単なる偶然にしても、異常な死亡率である。


2. さらに十年前にさかのぼれば、公園の東側の半径百メートルの範囲内で、奇妙な 自殺や幼児の事故死等を含め死んだ人は三十人を超す。

(詳細)

家族四人の某医師一家が、ほぼ五年おきに次々と自殺をしたり、三歳の男の子が公園のプールに落ちて亡くなるという事故や、死なないまでも、公園わきのある家では、嫁入りを一週間後に控えた娘さん(24歳)が買い物途中に車にはねられて大怪我をし、以後半身不随で寝たきりになったというような話もある。


[周辺調査・取材]

車両にて周辺付近を走らせたことはあったが、今回は少々不安を感じながら目的地へ向かう。場所は「北本通り」(122号線)を走り、赤羽警察署前付近より、西方向へ入り、路地を経由し五百メートルほどのところである。

公園は、学校・都営アパート・住宅等に囲まれたひっそりとした感じの場所にあった。遊戯施設は多くは無いが、体育館や網格子にかこまれた球技用のスペース、他にブランコ、滑り台、ベンチといった風景で別段変わった様子は無く、日も暮れる前のためか、子供連れの若い母親のグループやベンチに腰を掛け休んでいる人の姿が見られ、この地が、三百以上の遺体を埋められたところであり、周辺での不吉な出来事がある場所であるという感じがしないのが第一印象である。


さらに公園内を隅々観察していくと、その印象を一変させる風景を目にした。一望だけでは気がつかない場所に、黒みがけ石造りの立派な「慰霊碑」が建てられていた。公園内隅の東南位置である。さらに、網格子にかこまれた球技用スペースの奥であるため、視界に入りにくい場所である。


昼間


その慰霊碑には、「大東亜戦争犠牲者慰霊記念碑」と彫られており、高さ一メートル、幅七十五センチで、真新しい花が添えられており、辺りも荒れた様子は無くきれいにされている。その近くで草の手入れをする四十代ほどの女性に話を聞くと、町内の有志の人々が、亡くなられた方々の霊をなぐさめるため積極的に寄付を申し出、昭和五十年七月に建立したという。ただ、公園内の敷地の一部を借りることになるため、区との折衝には時間がかかったそうである。また、現在も毎年七月ないしは八月に慰霊祭が行われているということである。

また、連続して死亡事件があった道路の一軒の家(五十代ほどの女性)に取材をしたところ、一人一人を正確には記憶していないが、わずか一年ほどの間にこの路地で葬式が行われたのは事実としてある。ということであるが、「たまたまということ」と付け加えられた。
また、某医師一家の家族が次々と自殺した事件や幼児のプールでの事故死も薄い記憶の中にあるとのことであった。取材の最後に、この女性の知人が公園を歩いていたときに「背筋がぞっとした」ということをいわれたことがあると話してくれた。なお、その知人は、公園に慰霊碑があることも、空襲の被害者が埋められていたことも知らない人だったという。


[神谷公園についての各種情報]

空襲の犠牲にあった人々の遺体を一時的に収容し埋めた後、遺骨が掘り起こされ、遺族の手に渡されたのは、ようやく敗戦からの立ち直りの兆しが見えはじめた昭和二十六年のことであった。簡単な法要が営まれ、引き取り手のない遺骨も、無縁仏として近くの寺に葬られたという。

慰霊碑建立の提案は、連続死の事実の迫力により、気味悪がっていた付近住民はもとより、神谷二丁目の町全体に、ごく当然なものとして受け入れられ、入魂式には、町内の人約百人が詰めかけ、お坊さんの読経と護摩の中でしめやかに執り行われたという。


[所見]

周辺調査や取材等により、
1.神谷公園は空襲犠牲者を一時的に埋めた場所である。
2.公園に通じる狭い道路の両側の家で短い期間に次々と死者がでた。
3.結果として、慰霊碑の建立までの二十四年間、簡単な法要で供養もできなかった。
上記の事実を、成仏できないでいた霊のたたりと捉えられるかは判断しかねる部分であるが、2.の家々で引越しをしたのは、現在一軒のみである。