旧日野橋 |
FC 米子
[ 内容 ] それから丁度1年後のある雨の夜、一台の白い車が日野橋に差し掛かった。すると橋の袂にずぶ濡れになった一人の若い女が立っている。運転手の男性は気に掛かり「どうしたの?」と声を掛けた。すると、女性はうつむいたまま、か細い声で「橋の向こう側まで乗せて欲しいと頼みます」。おかしな事を言うものだと思いながら運転手は後部座席に女を乗せ、橋の反対側まで送った。車を停め「此処で良いのですか?」と後を振り返ると乗せたはずの女は居らず、ビッチャリと濡れた後部座席には小さな子供の靴が片方だけ転がっていたという。 それから雨の降る夜、男性が運転する白い車に限り、同じ様な体験をする者が続出した。噂は瞬く間に広がり、全国から取材や噂を聞きつけた者たちが幽霊の写真を撮ろうと橋の袂にテントを張るという騒ぎにまでなってしまった。 女は何故、雨の降る夜男性の運転する白い車にだけ乗り込むのか、真相は解らないまま、いつしか忘れ去られていった。 それから26年後の現在、この調査にあたって一人の女性と出会う事になった。その女性によると、26年前の日野橋に立った若い女の人は、自分の母親だという。彼女は母親が居なくなった日の朝の事を鮮明に覚えていた。 [ 証言 ] 「母親と父親は常日頃から喧嘩の絶えない夫婦でした。原因は父の浮気だったようです。その日も前夜から続いた喧嘩にノイローゼ気味だった母が幼い妹を連れ、家を出て日野川に妹を抱いたまま身を投げてしまいました。家のすぐに目の前にある橋なのですが、三日間続いた大雨により濁流となっていました。その時私は学校へ行っていた為 助かったのです。身を投げた日も朝から激しい雨が降っていました、そして父が乗っていた車は白いセダンでした。」 話を聞いて分ったのだが、彼女の実家と私の里は2km程しか離れておらず年も同い年、母子が身を投げた橋を境に町名が変る為、現在までその事実を知る事はなかった。今回の調査で当時旧日野橋に立った若い女の人の真実、本名,出身地、家族構成、享年、等のデータを入手する事が出来たが、それをこの場で公表する事は残念ながら出来ない。 この世に残していったものは夫に対する憎しみと情愛、それとも、幼い我が子を道連れにした後悔と懺悔なのだろうか・・・・・・いずれにしても身を投げた母子の成仏と、唯一生き残った彼女の幸せを願わずには居られない。 旧日野橋は現在通行禁止となっており、近く取り壊される事が決定している。 |
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