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『川崎中1殺害・犯人の殺意は狂気か?』精神科医 ヤブ

川崎の河川敷で先月20日、中学1年生の上村僚太くんが惨殺された事件で、その犯人グループは未成年で主犯格は18歳だった。

こういう事件が起こるとテレビでは、
「自分たちが若い頃には殴り合いのケンカなんかをやっていて、どこを殴ったらヤバいとか、そういう限界を知っていた。最近の子どもは温室育ちで限度を知らない」
ということを述べたがる中高年のコメンテーターや識者芸人が出てくる。そんな彼らの言葉を聞くたびに、私は失笑しながらこう思う。

嘘をつくな、嘘を。

どれくらい人を殴れば危険か、あるいはどれくらいのケガを負えば命に関わるか。いくら殴り合いのケンカをたくさんしたところで、人の命の限界なんて分かるはずがない。第二次大戦中のナチスや731部隊が過酷な人体実験を繰り返してようやく分かりかけるような話だ。もし日本の中高年の彼らが本気で「命とりになる限界を知っている」と思い込んでいるなら、そちらのほうが今の若者と同じかそれ以上に怖い。

ところで、こうした殺人事件では、必ずと言っていいほど弁護側が精神鑑定の必要性を訴える。それに対して一般の人たちの中からは、
「人を殺すときに正気なわけがない。むしろ正気で人を殺すほうが怖い。殺人者は狂気であるのが当然なのだから、精神鑑定なんか必要ない」
という意見が出ることがある。

ここで多くの人が見逃しているのは、殺人にまでいたる殺意には「量の異常」と「質の異常」があるということである。誰かを殺したいほど憎むということは、そう珍しいことではない。読者の中には身に覚えのある人も多いだろう。だが実際に殺人を犯す人はほとんどいないはずだ。たいていの殺人事件では、「殺意の量」が異常値に達したせいで起こったと思って間違いないし、精神鑑定を行なっても「責任能力あり」となるのが普通だ。ただし、鑑定を行なう精神科医の医師としての力量、人としての倫理観、個人としての価値観も大いに影響する。

この殺意の「量の異常」による殺人に対して、殺意の「質の異常」による殺人とはどういうものか。以前、探偵ファイルで、「殺せ」という幻聴から混乱状態に陥って実の親を殺してしまったという事案を紹介した。同様のケースはわりと多く、殺人未遂を犯した統合失調症のある患者は、「毎日電波で攻撃されているから、いつか殺されると思った。自分が生き延びるためには、殺られる前に殺るしかなかった」と憔悴しきった様子で語った。これこそが本当の狂気であり、こういう場合には「心神喪失」または「心神耗弱」となるであろう。

彼らを罰すべきか否かは議論の分かれるところだが、ここでは「キチガイ殺人者が野放しになっている」という誤解を解くに留めておく。責任能力なしと判断された彼らは、刑務所ではなく医療観察病棟という警備の厳重な精神科施設に強制的に入院させられる。そこから先は治療経過次第ではあるが、世間の人たちが思っているほど簡単に「野放し」になるわけではない。

話を少年の殺人事件に戻そう。今後、弁護側の常套手段として精神鑑定が請求されるだろうが、報道されている内容だけで考えれば、まともな精神科医なら「責任能力あり」と判断するはずだ。そして加害者は、医療ではなく更生のレールに乗せられる。とはいえ残念ながら、これまでの多くの例から分かるように、犯罪者がまともに更正するケースはそう多くない。そしてもっと残念なことに、犯罪者の更正にむけて精神医療が貢献できることはほとんどない。

それが現実だ。

 

ヤブ

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