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中国の歴史教科書2

第三節 日本帝国主義の侵略戦争に抗する中国人民

“九・一八”事変と“一・二八”事変
1929年、帝国主義世界で大きな経済危機が発生した。日本はその危機から逃れる為、蒋介石の大規模な内乱を好機と見て、中国に侵略してきた。
1931年9月18日、日本の関東軍は南満鉄道の線路を爆破し、この事を中国が行ったように見せかけた。それを口実として、関東軍は東北軍の営舎を砲撃した。これを“九・一八”事変と言う。これに対して蒋介石は“絶対不抵抗”を命じた。その結果、日本は審陽にまで侵略し、東北軍は遼寧・吉林・黒竜江から撤退、半年で東北三省を失った。
1932年1月28日、日本侵略軍は上海にいた十九路軍を突如襲撃した。これを“一・二八”事変と言いう。指揮官・蒋光廓の元、十九路軍は必死で日本の攻撃に対抗した。
十九路軍は人民の支持を受け、何度も日本の侵略を防いだ。1月末から3月初めにかけて日本軍は10万人に増員、それに対する十九路軍は4万人。しかし日本軍に約1万人の死傷者を出し、日本軍の司令官を三回も変えさせた。ところが国民党政府は十九路軍への弾薬・人員の援助を送らず、上海の義勇兵を無理やり解散させた上、寄付金を没収した。しかも裏では日本軍に物資の供給を行った。
一ヶ月あまりの抗戦もむなしく、十九路軍は弾薬が尽き撤退せざるをえなくなった。そこで国民党政府は日本と<上海停戦協定>を結ぶ。その内容は、中国軍は崑山・芳州一帯に駐留し、上海には日本軍しか入れないというもので、中国人民の利益は国民党政府によって裏切られたも同然だった。
1933年2月、日本軍は熱河省(本文注・旧省名。1955年に内モンゴル自治区、河北省、河西省に別けられる)・北平・天津を占領し、華北地方は危機にさらされた。5月、国民党政府は<塘沽協定>を結び、日本による熱河省・東北三省の統治を認めた。さらに河北の東北は中国軍が駐留できないため、これもまた日本のものとなった。


満州国建立
“九・一八”事変の直後、日本帝国主義は政府を作った。1932年、日本はそこに清朝の溥儀を擁立し、“満州国”を成立、9月には日本と“満州国”の間に『満州国は日本の植民地である』という内容の条約を結んだ。そして東北の人民は日本の植民地統治によって苦難に満ちた生活を送ることとなった。


全国人民の抗日運動
“九・一八”以後、中華民族は日本帝国主義に対して激しく対抗した。中国共産党は“民族革命戦争をもって、日本帝国主義を中国から駆逐しよう”という宣言を行い、全国で抗日運動が広まった。
1931年9月に上海で3万人の労働者が抗日ストライキ、10月には同じく上海で80万人の労働者が集まり抗日九国連合会を設立するなど、中国全国各地の労働者が多くの抗日団体に入り、運動が行われた。


学生も、小学生から大学生まで学校に行かず抗日デモを行い、国民党政府の負抵抗政策に反対した。 1931年12月、各地の学生が南京に集い、3万人の学生デモが行われた。その際国民党は学生に対して発砲、30人が死亡、100人の負傷者、そして多くの逮捕者を出した。これを“珍珠橋事件”と言う。 労働者だけでなく、愛国商人は日本の商品の不買運動を行い経済面でも日本の侵略に対抗した。また、東北ではゲリラ活動も行われた。1936年、中国共産党の各地の代表者が集まり、東北抗日連軍がつくられた。三人の司令官が日本軍と戦い、日本の軍事力を牽制し、日本の東北植民地政府に被害を与えた。
北の方では1933年、国民党の愛国大将が共産党に協力した。民衆の抗日同盟軍は参加者を10万人にまで増やし、一時は領土を奪い返すことに成功した。しかし国民党の軍隊と日本軍の挟み撃ちに遭い、同盟軍は失敗した。
一方南の方では、十九路軍と国民党内の愛国勢力と協力した。また1933年11月に福建省で、李済深を主席とする中華協和国人民革命政府という新しい政府が設立、紅軍と名乗り、十九路軍と<抗日停戦協定>を結んだ。しかし蒋介石は日本軍と結託し、両面から十九路軍を攻撃。福建における人民革命政府は失敗に終わった。

第4節 中国工農紅軍の長征

紅軍の4回にわたる反「包囲」の勝利 紅軍と革命根拠地の発展は、国民党反動派を恐怖に陥れた。1930年から1933年まで、国民党反動派は中央根拠地に対し、続けざまに4回もの反革命的「包囲」を実施した。


紅軍は、毛沢東の「敵主力との戦争を回避して敵を誘い込み、精鋭を集中的に投入することで敵を個々に殲滅する」という方針に基づいて、連戦連勝を飾り、4回にわたる敵の反革命的「包囲」を打ち破った。
1930年12月、蒋介石は10万の兵力を集め、中央革命地に対する包囲攻撃を行った。当時、中央紅軍はわずか4万人であったが、毛沢東の指揮の下、5日の間に2度の勝利を上げ、敵の「包囲」を粉砕したのである。
1931年5月、蒋介石は再び20万の兵力を動員し、中央根拠地に対する2回目の「包囲」を開始した。紅軍は5戦とも勝利を上げ、敵兵3万人を殲滅、今回の「包囲」も粉砕した。
1931年7月、蒋介石は自ら総司令官として30万の軍隊を率い、中央革命根拠地への3度目の「包囲」を行った。紅軍は3戦とも勝利し、敵3師団を撃破、さらに勝利に乗じて1個半師団を殲滅し、蒋介石の目論見も失敗に終わった。
1933年2月、蒋介石は50万の軍隊を集め、中央革命根拠地に対する4回目の「包囲」を行ったが、紅軍は周恩来、朱徳らの指揮の下、再び勝利した。

紅軍の第5回反「包囲」の敗戦と長征のはじまり 1933年初頭、中国共産党臨時中央は上海から瑞金に移った。当時、党中央では王明の左傾冒険主義が支配的であり、中央根拠地でも推し進められていた。
1931年1月、党の第6回四中全会において、王明はコミンテルン代表の支持の下、党中央の指導権を掌握した。王明は中心的都市の奪還を求め、国民党統治地域における広範囲なストライキ、授業のボイコット、デモ活動、武装闘争を命じたが、これによって党とその革命的力量が敵の眼前に晒されることとなった。その後、王明はモスクワへ行き、中央の業務は博古が担当したが、博古もまた王明の左傾錯誤路線を推し進めたため、国民党統治地域におけるほぼ全ての組織が明らかとなり、深刻な打撃を被った。1933年初頭、中国共産党中央は、上海での基盤を失い、中央革命根拠地の移転を迫られることとなった。
1933年10月、蒋介石は100万もの軍隊を結集し、中央革命根拠地と近隣の根拠地に対する5回目の反革命的「包囲」を行った。

 


博古とオットー・ブラウン(※1)は王明の左傾冒険主義を掲げ、「敵を国外へ追放すべし」と主張、紅軍に敵の堅固な陣地を攻撃するよう命じた。攻撃が失敗に終わると、彼らは兵力を分散し、各所を防備し、抵抗するよう主張するという保守主義的過ちを犯した。その結果、紅軍は一年にわたって奮戦したにも関わらず、敵の「包囲」を打ち破れなかったのである。1934年10月、中国共産党中央と中央紅軍は戦略的移転を実行、長征を迫られることとなった。

(※1)オットー・ブラウン:ドイツ人。博古に招聘され軍事顧問をしていた

長征当初、紅軍は敵の4つの封鎖線突破には成功したものの、その兵力の半ばを失い、前に進めず、後には敵兵が迫るという危機的な情況に追い込まれた。そこで、毛沢東が湘西へ向かうのを中止し、敵兵力が手薄な貴州への前進することを提言、大部分の指導者らの賛同を得た。紅軍は貴州へと前進、烏江を渡り、貴州の要衝「遵義」を占領した。

遵義会議と紅軍長征の勝利 1935年1月、中国共産党中央は遵義で政治局拡大会議を招集した。会議では博古らが軍事、組織の両面で犯した左傾錯誤を是正するとともに、毛沢東の軍事路線を支持することが決定されたほか、毛沢東を中央政治局常任委員として選任し、博古、オットー・ブラウンから軍事最高指揮権を剥奪することが決まった。遵義会議では、王明の左傾冒険主義による党中央の支配が終焉を告げ、毛沢東を中心とする新たな党中央の指導体制が確立された。最も危険な時期に、党を、そして紅軍、中国革命を救うこととなるこの決定は、党の歴史において存亡に関わる転換点であった。遵義会議は、中国共産党が初めて自主的にマルクス主義基本原理によって、自らの路線、方針、政策を解決した会議であり、黎明期から成熟へと向かう中での重要な節目となった。
遵義会議の始まりにおいて、博古による第5回反「包囲」を総括する報告がなされた。彼はその報告において、第5回反「包囲」の失敗は、主に帝国主義と国民党の強大な力という客観的要素が原因であり、自らとオットー・ブラウンが軍事指揮において重大な過ちを犯したとは認めなかった。周恩来は、会議の中で軍事問題に関する報告を行い、博古とオットー・ブラウンによる軍事上の過ちを批判し、また自らをも批判した上で進んで責任を引き受けた。毛沢東も会議において重要な発言をし、博古、オットー・ブラウンが犯した軍事上の過ちを的確に分析、批判した。3日間の討議を経て、会議では張聞天が多数の人間の発言をまとめて起草した決議が採択され、毛沢東の正確な軍事戦略方針に改めて支持が打ち出された。会議の終わりには、中央指導機構の改組と博古、オットー・ブラウンの最高軍事指揮権の取消が決定された。中央常任委員会での分担決定の後、毛沢東、周恩来、王稼祥からなる3人軍事指揮部が成立し、紅軍の行動を一元的に指揮することとなった。
遵義会議後、紅軍は毛沢東、周恩来の指導の下、赤水河、金沙江を渡って敵の包囲網を突破すると、順調に彝族区を通過し、速やかに濾定橋を奪取した。さらに大渡河、大雪山を越え、草原を渡って甘粛、陝西へと足を踏み入れ、1935年10月に陝来呉起鎮に到達、劉志丹率いる陝北紅軍と合流した。1936年10月には、紅四方面軍と紅二方面軍が甘粛会寧地区に到着し、紅一方面軍との合流を果たした。長征はここに勝利という結末を見たのである。
長征の成功は、国民党反動派による中国革命阻止の思惑を打ち砕き、中国革命の危機的状況を救うこととなった。毛沢東は言った。「長征は史上初のものである。長征は宣言書であり、宣伝隊であり、種まき機である。……長征は我々の勝利、そして敵の失敗という結果で終わりを告げた。」

南方紅軍のゲリラ闘争 紅軍の主力が長征に出た後、江西、福建、広東、湖南、湖北、河南、浙江、安徽の8省に残った紅軍は、項英、陳毅らの指導の下、革命闘争を継続した。1934年から1937年まで、彼らは苦難に満ちたゲリラ闘争を続けたのである。それは抗日戦争勃発まで続き、その後彼らは抗日の戦場へと向かった。
当時、南方紅軍の情況は艱苦を極めていた。敵は「三光」政策(樹木の完全伐採、家屋の完全焼失、人間の殲滅)を実施し、紅軍兵士の全滅を画策していたため、紅軍ゲリラ戦士は、食料がつきれば山菜を食し、宿営がないため、野外で休むのが常であった。1936年の冬、陳毅らは梅山にて敵の包囲を受けたが、なんとか危機を脱したのは20日あまりたった後のことだった。生命は細い糸でつながっているような状態だったのである。陳毅は豪胆な詩を残している。
「断頭今日意如何?創業艱難百戰多。此去泉台招旧部,旌旗十万斬閻羅。」
(今日、死ぬとしたらどうなるのだろう?多くの困難と戦を越えたものだ。墓に着いたら部下どもを呼び、十万の旗を立てて閻魔を切ってやるとしよう。)

第五節 抗日民族統一戦線の初歩的形成

中国共産党の抗日民族統一戦線政策の決定
1935年8月1日、中国共産党中央委員会は《抗日救国のために全同胞に告ぐ書》即ち《八一宣言》を発表し、全国人民が団結して内戦を中止し、一致して抗日にあたることを呼びかけた。
同年12月、党中央委員会は陝北の瓦窯堡で政治局拡大会議を開き、抗日民族統一戦線の方針を決定した。続いて、毛沢東は党の活動分子会で、《日本帝国主義に反対する戦略を論ず》を報告し、日本帝国主義が中国を植民地化しようとしていると指摘し、中国共産党の任務は、紅軍の活動と全国の労働者、農民、学生、小階級、民族資産階級の全ての活動をまとめ、統一民族革命戦線を作り上げることであるとした。この報告は中国共産党の抗日民族統一戦線の理論基盤となった。瓦窯堡会議の後、中国共産党は積極的に抗日民族統一戦線政策をとり、情勢の変化に応じて党の政策を「抗日反蒋介石」から「蒋介石に抗日を迫る」に変更した。


「一二・九」運動
1935年、日本は大規模な侵略軍を送り平津を脅かした。国民政府の何応欽は日本の河北駐屯軍司令官の梅津美治郎と秘密裏に《何梅協定》を結び、河北の中国軍を撤退させ、一切の抗日組織活動を取り締まることに同意した。その後、日本は「河北五省自治」を画策し、河北を中国から分離させようとした。
「抗日は生、抗日しなければ死」全国人民は救国の叫び声をあげた


1935年12月9日の早朝、中国共産党の指導のもと北平の学生5、6千人がデモ行進を行った。彼らは「日本帝国主義を打倒せよ」、「内戦を停止し一致して外敵にあたれ」、「河北自治反対」と叫んだ。国民党当局は軍警察を出動させ、刀、鞭、棒でデモ行進を鎮圧した。100名以上の学生が負傷し、30名余りが逮捕された。これが「一二・九」運動である。
「一二・九」運動は国民党の売国政策に打撃を与え、日本の中国滅亡の陰謀を明らかにし、中国共産党の抗日救国の主張を広く呼びかけて、中国民族の覚醒に寄与した。「一二・九」運動後、中国共産党は直ちに「革命知識人が労働者、農民および軍隊に合流しなければならない」と指摘した。平津の学生は次々に南下宣伝隊を組織し、工場、農村、軍隊に入って、抗日救国を呼びかけた。全国抗日救国運動は更なる盛り上がりを見せた。


西安事変およびその平和解決
蒋介石は東北軍と十七路軍を駆使し、西北で「共産党討伐」を行った。全国の抗日救国運動が盛り上がる中、中国共産党の抗日民族統一戦線政策の感化を受けて、東北軍と十七路軍の将軍張学良、楊虎城は紅軍と停戦し、蒋介石に対し共産党と共に日本と戦うよう要求した。1936年12月、蒋介石は自ら西安を訪れ、紅軍を攻めるように強いた。張学良、楊虎城は何度も蒋介石に共産党と共に日本と戦うよう勧めたが、蒋介石の横暴な拒絶にあった。
1936年12月12日、張学良、楊虎城は蒋介石を拘留し「兵諌(実力をもって諌めること)」を実行して、全国に公開電報を打ち、内戦を停止し共産党と共に日本と戦うことを呼びかけた。これが「西安事変」である。
蒋介石の「兵営」は西安から25kmの臨潼県華清池に設けられていた。12月12日早朝4時過ぎ、東北軍警護部隊の隊長孫銘九は50名余りの兵士を率い、東北軍一連隊の協力を得て華清池を攻撃し、蒋介石の警護部隊を殲滅して蒋介石の寝室「五間庁」に入った。蒋介石は激しい銃声に驚いて目を覚まし、急いで外に逃げ、あわてて背中を痛打した。蒋介石は傷にかまう暇もなく、懸命に山に逃げたが、山腹で動けなくなり、大きな石の陰に隠れた。孫銘九は兵士を連れて山腹まで捜索し、蒋介石を発見して西安に「招き」、新城大楼に軟禁した。時を同じくして、西北軍が西安城内を攻め、蒋介石の武装を解除し、10名余りの国民党軍政幹部を逮捕した。
西安事変の後、国民党内部の親日派である何応欽は内戦の拡大を謀り、機に乗じて蒋介石を死地に追いやり、最高権力を奪おうとした。国民党内の親英、親米派である宋子文、宋美齢等は事変の平和解決を主張し、蒋介石を無事南京に奪回した。この複雑な闘争の中、中国共産党中央委員会は民族の大儀を重視して、西安事変の平和解決を提示し、周恩来等を交渉のために西安に派遣した。各方面の努力により、蒋介石は内戦停止と国共合作、抗日の条件を受け入れた。25日、張学良は自ら蒋介石に同伴して南京に返った。
西安事変の平和解決は、時局転換のポイントとなった。西安事変の平和解決は十年の内戦が終結し、抗日民族戦線が基本的に形成されたことを意味する。

 

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