●更新日 09/17●


豊臣家周辺の呪い


猛将・織田信長が天下統一を目前にして、明智光秀の謀反により、本能寺で横死した後、その遺産を簒奪したのは、臣下の豊臣秀吉であった。信長の長男の息子、つまり直系の孫にあたる三法師をシンボルとして担ぎ上げ、信長の後継者という地位に治まり、織田家中を掌握し、天下人に駆け上ったのである。元々は、その出生すら不明な賎民であった秀吉が、関白となり、最終的には人臣の最高峰である太閤と称された事実は、日本の歴史の中でも異例の出来事であった。当然、強引な秀吉の出世と政治的辣腕には、大勢の犠牲者がおり、その魂は怨霊となり、多くの祟りや呪いを慣行した。

一番の呪いといえば、秀吉の甥にあたる豊臣秀次である。この秀次は、秀吉の後継者と言われ、関白の座を受け継ぎ順風満帆の人生を送るのだが、いきなり未来が暗転する。秀吉に嫡子である豊臣秀頼が生まれた途端、邪険にされ素行の悪さから、切腹に追い込まれ一族郎党が皆殺しにされてしまうのだ。この惨劇が行われた三条川原では、その後無数の霊鬼が彷徨い、切り捨てられた秀次一族の悲しい悲鳴や恨み言が跳梁跋扈したと言われている。

また、強引な秀吉による全国統一作業でも、無数の犠牲者が出ており、生み出された怨霊は数多い。紀州攻めで死亡した兵士たちの怨霊は、現代でも徘徊しているというし、秀吉が攻め滅ぼした柴田勝家一族は、城が落城した日になると首なし武者となって行列して歩くという。やっかいなのは、この行列に出会った者は命をとられてしまう事であり、息を止めて行列が立ち去るまで、静止すれば助かるとも言われている。だが現地に残る怪談によるとこの伝承に従い、息を止めて首なし武者の行列をやりすごした女性が、翌年の行列日に死体となって発見されたとも言われている。悲劇の武将・柴田勝家は、現代でも秀吉への無言の抗議をしているのだ。

他にも関東地方で最もやばいと言われている心霊スポット・八王子城址の発生も、元々は豊臣秀吉の北条攻めに原因がある。主力を小田原城に派遣していた八王子城には、正規戦闘員はほとんどおらず、女や老兵で応戦した。善戦するものの、結果的に惨敗、城に立て篭もった大部分の人間が自害するに至った。その流血が城址付近にある滝を真っ赤に染めたとも言われており、今も興味本位で遊びに行く若者たちに祟りが及ぶと噂されている。
現実に、この八王子城址付近では殺人事件が起きており、現代怪談の語り部・稲川淳二の怪異談にも登場する。

関西地方で秀吉が原因で生まれた怨霊スポットも存在する。豊国神社の近所にある耳塚である。これは悪名高い秀吉の朝鮮出兵によって討ち取られた朝鮮側の兵士の耳であり、外地から日本に持ち込まれたものである。つまり、耳によって造られた塚であるという。
この場所は、今でも霊障が強く、霊感の強い者が近くにいくと自分自身の耳に極度の痛みを感じたり、重い耳鳴りに悩まされたりするらしい。ここもまた秀吉の、自分勝手な思いつきの遠征で生まれた悲しき場所なのである。

最も、問題視されるのは秀吉自身が、怨霊に悩まされていたという事である。秀吉の親友である前田家サイドの記録なので信憑性が高いのだが、実は秀吉は信長の怨霊に悩まされていたというのだ。信長の息子を殺し、娘を犯した大悪人・秀吉であるから、信長に祟られても仕方ないであろう。毎晩のように秀吉は、信長の怨霊に謝っていたという。結果的に秀頼の代で豊臣家は滅びるのだが、巷では多くの怨霊によって滅亡に追い込まれたと言われている。因果応報とは、この事である。



山口敏太郎



◇上記のタグを自分のサイトに張ってリンクしよう!


探偵ファイルのトップへ戻る

前の記事
今月のインデックス
次の記事