●更新日 12/21●


黒潮文化圏に流れる海の民の血脈とは


前回、黒潮に面する県には県民性の類似があり、黒潮文化圏(茨城・千葉・静岡・和歌山・徳島等)が過去にあったのではないかという可能性を示した。今回は県民性や地名以外の一致を紹介したい。
紀州(和歌山)に伝わる有名な伝説の一つに、「清姫伝説」がある。その昔、安珍という美少年の僧がいた。清姫は彼に惚れてしまい、言い寄るが上手く逃げられてしまう。その執念のために清姫は蛇身となり、逃げる安珍をとり殺してしまうという伝説である。
非常に驚くべきことに、この「清姫伝説」は千葉県にも存在していた。しかもその伝説では、安珍の代わりとして有名な陰陽師「安倍晴明」が登場している。ある時のこと、安倍晴明が千葉を訪問し、逗留したことがあった。話の中の晴明はいささか女性に手が早かったらしく、逗留先の娘であった延命姫と契を結んでしまった。しかし翌朝、延命姫の顔を見るとアザがあることに気がついた。驚いた晴明は即座に逃げ出し、崖の上で衣服を脱ぐと、崖から飛び降りたように見せかけた。追ってきた延命姫は、晴明が身投げしたものと思い、入水してしまった。この時姫は、夜叉の姿、あるいは蛇体になったと伝えられている。
この伝説は、多少内容が異なるものの、大まかな内容は酷似している。千葉バージョンの清姫伝説といえるであろう。本物の安倍晴明が女を捨てるなどという野暮なことはしないとは思うが、陰陽道が黒潮文化圏で広まっていたのは事実であるようだ。
事実、東京や千葉で陰陽道や晴明信仰が盛んであった形跡が残されている。また静岡や神奈川には晴明伝説が多く残されている。筆者が調べてみると、平安時代末期、力を増しつつあった仏教側の勢力によって、晴明の子孫や弟子たちで構成された陰陽師の勢力は政界を追われ、北陸や太平洋側に落ち延びていた。そして、多くの人々どもが、公の陰陽師から民間の陰陽師へと零落した。陰陽師たちを追い出した朝廷に対して、鎌倉に拠点を構えていた源頼朝は陰陽道に理解があった。ゆえに、鎌倉幕府は多くの陰陽師を迎えたといわれている。
事実今でも、鎌倉に晴明に縁のある史跡が3箇所ほど存在している。
こうして晴明の子孫たちは、自分たちを追放した都を呪いながら、黒潮に乗って各地を移住していったのである。そして海の民へと溶け込んでいった晴明の血は、このあと1000年に渡って、朝廷と霊的な呪術合戦を繰り返すことになる。黒潮文化圏の影響下で生まれた有力者、源頼朝、足利尊氏、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康。その誰もが朝廷に対抗する武家政権を築きあげた。
現在では多くの人々が生まれた場所から移住し、昔のように○○の民と括られることがなくなってきているように考えられる。だが現在でも、海の民の血脈を継ぐ者たちは存在するのかもしれない。

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山口敏太郎



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