●更新日 09/12●
能勢町「史跡 しおき場」(その2)
「能勢家」と「多田家」の因縁の物語。
それは当時「能勢多田領境口論」と呼ばれた事件である。
戦国時代末期。霊峰「妙見山」の山麓。
当時、その近隣を領地としていた「能勢家」と「多田家」の境界あたりで、農民が領地の境界を越え、近隣の村に狼藉をはたらくという事件が起こった。
どちらがどちらの領地を侵犯したのか、その詳細は判然としない。
しかし、この事件により「能勢家」と「多田家」の農民たちは互いに激昂し、両家とも15歳以上の者が残らず立ち会っての口論となった。
口論は騒動となり、やがて暴力沙汰に発展する。
「能勢家」と「多田家」は互いに一歩もゆずらず、農夫たちは、手に手に木刀などをとって殴りあうという大騒乱に発展した。
当時の様子が古文書にはこう著されている。
「死人は満ちて、尺地これなく、血は黒々として泉をなす……」
もはや「口論」などという生易しいものではない。
「能勢家」と「多田家」は、総力をあげて壮絶な「殺し合い」をはじめたのである。
やがて騒ぎを聞きつけた役人の介入により、騒乱は一旦静まった。
役人の仲立ちのもと、再び話合いがはじまる。
しかし、両家は互いに聞き入れようとしなかった。
夜を徹しての話合いの甲斐なく、夜明けには再び木刀などでの殺し合いが始まってしまう。
何とか騒ぎを鎮めようとした役人たちも重症を負わされてしまう始末だった。
報告を聞いた一帯の領主は、
「甚だ(はなはだ)不届き至極なり。この儘にて捨て置き難し」
と大いに怒り、軍議を開いて軍隊を差し向けようと画策した。
しかし「農民同士の争いに軍勢を動かすのは如何か?」との家臣の進言により、さらに上層の権力者へ報告し、命令を仰ぐことになる。
上層の権力者、即ち、後の天下人「豊臣秀吉」である。
とはいえ、そのころ秀吉は天下統一のための島津制圧の途上であり、極めて多忙であった。
報告に参じた役人は「いずれ早急に糾明する」との御意を得て引き下がらざる得なかった。
しかし、その間にも「能勢家」と「多田家」の殺し合いは、凄絶さを増してゆく……
やがて、ようやく使者を通じてもたらされた秀吉からの返答は、
「此度、能勢多田領境口論は、両家の百姓共、あい争うこと不届至極なり。両家より取り鎮めの者(役人)を差し出しながらもかえって騒ぎを大きくしたこと不行届である。しかしながら、此度の分は差赦し(さしゆるし)、双方和睦。」
(赦しがたい不始末ではあるが、今回はお咎めなし。能勢家と多田家は和睦せよ)
との言葉であった。更に、秀吉の家臣より
「(能勢・多田の)一ヶ所ごときは、九牛が一毛にも不足。覚悟を決め返答せよ。」
(秀吉殿が天下統一を目前にした現在、このような騒ぎは「九匹の牛にくらべた一本の毛」にも及ばない些事である。それを覚悟のうえ両家は命に従え。)
との言葉も添えられた。
既に近畿一円を支配下におき、天下人たらんとしていた最高権力者からの、まさに厳命であった。
血に狂った「能勢家」「多田家」の農民たちも、この威光には逆らえなかった。
そして、長い話し合いの末「能勢家」と「多田家」が結論した和睦条件とは……
「両家の農民代表者10名の身柄を互いに引渡し、双方にて斬首処刑』
即ち「交換処刑」であった。
しおき場に遺された巨石。これに記された文字を解読すれば、以下の通りになる。
ある識者はこう分析する。
『「耕」は「農民」、「室」は「室に入りて矛を操る」、転じて「相手の領地に入りこんで攻撃する」の意、そして「昌舜」は「徳を讃える」の意であり、これらの文字を囲む円相は「事態が収集した」「一件落着した」という意味を表します。つまり、この巨石に刻まれた文字は「耕室」でこの事件、「昌舜」で処刑された代表者への賞賛と弔いを表し、それを円相で囲むことによって「彼らの犠牲によって事件は落着した」ということを示しているのです。』
「史跡 しおき場」
もし、あなたにここを訪れる機会があったなら、どうか慎んで死者の冥福を祈ってもらいたい。
ここは、単に「罪人の処刑場であった」というだけではない。
仲間達の責任を負い、その代表として従容と処刑されていった農夫達。その徳望を讃え、弔う「慰霊の地」でもあるのだから。
戦国時代。現代よりも人の命がはるかに軽かった時代の話である。
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大阪:九坪
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