●更新日 03/19●
クレヨンの家
安くて環境の良い家に住みたい。しかし、本当に安くて良い部屋なんてあるのか?誰しも一度は考えてみたことのある問いだと思います。
これは私が知り合いの不動産屋から聞いた話ですが、そんな問いに対する、ひとつの答えになるかもしれません。
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大学時代の友人Sさんから「良い物件はないか」という相談をもちかけられたのは、ある年の12月でした。久し振りに会ったSさんは、大学時代と変わらない落ち着いた笑顔と話し振りで、36歳という歳にふさわしく肉付きもよくなっていました。子供も大きくなってきたこともあり、今住んでいるマンションが手狭になってきたので引越しを考えている、とのこと。
Sさんは奥さんと1歳になる子供一人の3人暮らし。できれば小さくても良いので庭つきの一戸建てが希望ということでした。場所は都内23区で、もちろん家賃は安ければ安い方が助かる、と。この時残っていた一戸建ての中にはSさん一家の条件に叶うものはなく、情報が入ったら知らせるということで話を終えました。
目ぼしい物件が見つからないまま年が明け、しばらくしたころに、Sさんから電話が。
「いやあ、K君には悪いんだが、良い物件が見つかったので引っ越すことになったよ」
その物件はS区内の閑静な住宅街にあり、急行も止まる私鉄の駅から徒歩8分、庭はないものの一戸建ての3DKだそうです。環境の良さは申し分ありません。
「なんと、家賃が10万なんだよ。驚くだろ?」
何でも大家がどうしても家をそのままの状態にしておきたいとのことで、格安で借り受けているらしいのですが、不動産業界にもちゃんと相場があります。その環境で順当な値段を考えれば、1.5倍の家賃を請求されてもおかしくありません。かなりの掘り出し物と喜んでいるSさんの話ぶりに次第に興味が湧いてきました。そこまでの物件があるとなれば、見ておきたいと思うのは、商売柄もあってのこと。あら探しをしてSさんの鼻を明かしてやろうという、ちょっとした邪念も横切ります。一度見せてくれないか、と切り出すと、二つ返事で了解が得られました。
不動産業の掻き入れ時は2月3月。Sさんの家が気になってはいたものの、仕事の切れ目が見つからず、やっと時間が取れたのは桜の花もほころびはじめる4月の始めでした。ご無沙汰しちゃって、と電話をかけると、心なしかSさんの声が暗い気が。少し気にかかりましたが、次の休日に家を見せてもらうことになりました。
ターミナル駅から急行で15分、改札を抜けると、そこにはSさんが待っていました。
柔和でふっくらしていた頬がこけ、肌には疲れが見てとれます。真っ黒な剛毛にも、白いものが目立つようになっています。わずか半年前に会った時に比べても、ぐんと印象が変わっていました。いや、やつれていたと言った方が正しいでしょう。挨拶もそこそこに、疲れているんじゃないか? と心配の言葉が出ました。
「いや……ちょっといろいろあってな。まあ歩きながら話そう」
Sさんの家は小さな商店街を抜けて、住宅地に変わり始めるすぐのところにありました。隣の庭先の桜が目に入ります。つぼみが色づきはじめる頃合の木が多いなか、一本だけがもう桜色に染まっていました。
「さて、着いたよ」
白っぽいコンクリートの塀に囲まれたSさんの家は、どこにでもあるような二階建てのファミリー向けの物件でした。築15年にしては、ベージュの壁がキレイです。恐らく、入居時に軽くリフォームが加えられているのでしょう。南向きの二階のベランダには、洗濯ものがはためいています。男ものばかりが吊られているのは、防犯対策なのか、と軽く聞いてみると
「ああ、妻は出て行ったんだよ」
と疲れた声が返ってきました。何故、と聞き返すとSさんはこわばった笑みを浮かべました。
「クレヨンが、落ちていると言うんだよ。クレヨンが。その話は後にして、とにかく、家を見るんだろう?」
当初の予定通り、家を見たいという気持ちはありましたが、Sさんの態度が気になりました。しかしここで引き返すわけにもいかず、玄関へと向かうSさんの後に従います。
まず玄関を入って目の前に階段があり、左手が客間、奥にはダイニングキッチンと風呂。階段の下にはトイレがあります。二階には寝室とSさんの書斎にトイレがあります。ごくごくありふれた間取りで、日当たりもわるくありません。環境も申し分なく、これで10万はやはりかなりの掘り出し物、と言えそうです。
……しかし、ひとつ気になることがありました。どうしても、1階と2階の間取りがかみ合わないのです。2階の北側に、もうひとつ部屋があるとしか思えない造り。廊下の壁の向こう側に……
一通り家に目を通した後、家の評価をSさんに伝えました。これはかなりの掘り出し物だ、と。Sさんは曖昧に笑ってコーヒーを入れました。
「しかしね、ここに引っ越してきてから……妻がおかしなことを言い始めたんだよ。さっきも少し話したがね、クレヨンが落ちている、ってね」
引越し当初は環境もよく、落ち着いたこの家の雰囲気にSさん一家はかなり満足していたそうです。それが、狂い始めたのは、奥さんが2階の廊下に転がるクレヨンを見つけてから。夕暮れ時、洗濯物を取り込んで、ふと、廊下を見ると赤いクレヨンが落ちているのです。まだ子供はお絵かきができる年でもなく、クレヨンを買った覚えもないので不思議に思いましたが、とりあえず拾い上げて台所のテーブルに置いておいたそうです。
ヘンだなあ、その時はその程度の気持ちでした。しかし、次の日、また夕方に2階の廊下に出てみると……クレヨンが、落ちているのです。気味が悪いと思いながらも、奥さんはまた拾い上げて台所にクレヨンを持って行ったそうです。Sさんの悪戯ではないか、と疑ったそうですが、Sさんはクレヨンのことなど、まったく知りませんでした。
その後も、夕暮れ時の廊下に、いつも赤いクレヨンが転がっているのを奥さんは見たそうです。他の時刻に2階に上がっても、見当たらないクレヨンが。その時刻Sさんはまだ仕事中です。家の中には奥さんと1歳になる子供の二人きり。当然、子供がクレヨンを持って2階に置いてくるなんてことはできるはずもありません。
Sさんは育児ノイローゼなんじゃないか、と心配して、子供を外に預けることを提案しました。奥さんもしぶしぶながら、同意しました。しかし、たった一人の夕暮れ時、廊下にはやはり赤いクレヨンが……
その日、奥さんは、しばらくこの家を離れたいと言い、Sさんの制止をふりきって子供を連れて出て行ったそうです。
この話を聞いて、間取りの不審点を切り出す決心がつきました。紙にざっと図面を引いて、Sさんに説明していきます。蒼白い顔が、いっそう白くなったように見えました。
「一緒に確認してもらえないか?」
小さく、震えるような声でSさんは言い、2階へと上がりました。思った通り、北側の壁を叩くと軽い音がします。ちょっといいかい、と断ってから、壁紙を一気に引き剥がしました。
そこには、やはり、ありました。ドアノブの無い部屋が。もう私はSさんに確認もとらず、ドアに体当たりをしていました。
タスケテ タスケテ タスケテ タスケテ タスケテ タスケテ タスケテ タスケテ
がらんとした部屋一面に、赤いクレヨンの殴り書きが、ありました。北側の窓が塗りこめられた薄暗い部屋の中で、南からの光を受けて赤い文字がぼうっと浮かび上がるようでした。
その後わかったのですが、あの家には以前、大家さん一家が住んでいたそうです。あの部屋は、娘さんが使っていたということです。躾に厳しい家と近所でも評判で、娘さんは休日あまり外に出る姿を見なかったようです。これは噂ですが、娘さんが男性と付き合っていることがバレてから、軟禁状態になったとか……一家が越してしまってからずいぶん経つので、詳しいことはわかりませんでした。
引越しと前後して、娘さんの捜索願いが出されたという話も、聞いています。家をそのままにしておきたいという希望の理由は、娘さんの捜索願いと考え合わせると、見えてきそうです。本当に娘さんは軟禁されていたのか、あの部屋で何があったのか、大家さんに聞いても知らないの一点張りでした。
Sさんは、その後すぐ引越しをし、また家族で暮らし始めました。
私は、あの家を思い出すたび北隣で一本だけ早咲きしていた、怖いぐらいに美しい桜の花を思い出すのです。ちょうど、あの部屋の窓があったなら、一番良く見える位置にあるであろう、桜の花を。
あなたが桁外れに安くて良い物件を見つけてしまったら、一度この話を思い出してみるのも良いかもしれません……
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どの業界にも共通して言えることですが、周りの相場と比べてみて、余りにも安いのはそれなりの理由があるからです。
例えば、ブロック1万円で売っている和牛が、同じ大きさで4千円で売られていたら、何故と疑うでしょう?
食べ物には敏感なのに、住む場所は安ければ安い方がいい・・・そう思っている人は多い――
西垣 葵
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