●更新日 10/02●
3年0組
9月の終わりとともにめっきり秋らしくなってきた。
芸術の秋、スポーツの秋と昔から言われているように、秋は何かを始めるのによい季節のようだ。
夏の暑さが終わり、涼しくなって過ごしやすくなってくるからだろうか。(食欲の秋は、食べ物が豊富な現代では、季節に関係なくなってきている気がするが)
文化祭、体育祭、遠足、秋は学校行事も目白押しだ。
もっとも最近は小学校から高校まで、文化祭と体育祭を分けてどちらかを1学期のうちにすます学校が増えてきているようだ。
2学期に行事が多かった世代の筆者としては、いささかのさびしさを感じるが、単なるノスタルジーだろうか。
今回は、そんな学校にまつわる話を紹介したい。
これは、筆者が取材したいわゆる「実話怪談」である。
ただし恐怖体験ではく、歴史の犠牲者になった名もない人々の物悲しい話である。
Sさんは、東海地方の某県の学校に通っていた。
そこはいわゆる由緒あるお嬢様学校で、大正ロマンの頃から続く名門校であり、庭や校舎はレトロな佇まいを残していた。
Sさんはそんな自分の学校が大好きだったのだが、唯一疑問に思うところがあった。
教室が一つだけ、何にも使用されてないのに関わらず、閉鎖もされずにそのまま放置されているのだ。
「何故? あの教室だけ使わないの?」
Sさんは、常に疑問に思っていたという。
ある日の事、先生の指示で、みんなでその教室に入る事になった。
(いよいよこの教室の謎が解けるわけね)
Sさんはわくわくして教室に足を踏み入れた。
そこは、まるで今も誰かが毎日使っているかのように綺麗であった。
(おかしい、てっきり埃だらけだと思ってたのに・・・・・・)
先生は教室の清掃をし、鉛筆とノートを各机に置くように生徒達に指示した。
(ついに、この教室も使われるのかな)
Sさんはそう思って、先生に訊ねた。
「先生、この教室は何故いつも使ってないのですか」
「それはね」
先生はゆっくりとその事情を話し始めた。
日本が太平洋戦争中まっただ中だった頃。
この町も空襲の餌食となった。
雨のように降り注ぐ爆弾は、容赦なく町を焼き尽くし、この学校も戦火を避けることはできなかった。
そして、校内にいた多くの生徒が空襲で亡くなってしまったという。
そんな、学業半ばで亡くなった女生徒たちの為に、今もこの教室をあけておいたのだという――。
それ以来、Sさんは度々その教室の噂を聞くようになった。
部活で遅くなると、その教室に登校している女生徒とすれ違うことがあるというのだ。
「こんばんは〜」
あの日、みんなで掃除をしたことが、彼女たちがまた通学し始めるきっかけとなったのかもしれない。
今でも生徒たちは、その教室を3年0組と呼んで恐れているらしい。
時間の止まった教室に、今も亡くなった女生徒たちは通い続けているのだろうか。
山口敏太郎
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