●更新日 11/02●
忘れてはいけない日本の民族紛争 シャクシャインの乱
寛文年間(1661〜1673)、北海道のシベチャリチャシで、シャクシャインの乱と呼ばれる大規模な「戦(いくさ)」があった。
「シベチャリ」とはアイヌ語でシベチャリ川(静内川)流域の場所のことを言う。
「チャシ」とは同じくアイヌ語で砦の意味であり、日本語にすればシベチャリ砦とでも言えるだろうか。
シベチャリには、シャクシャインが首長のメナシクル(アイヌ語で東方の人びとの意味。)と、オニビシが首長のシュムクル(アイヌ語で西方の人々の意味)の二つのグループがシベチャリ川流域の領分を巡って長く対立していた。
抗争により先代首長が死亡し、副首長から新首長になったのがシャクシャインだ。
松前藩の仲介によって1度は和睦したメナシクルとシュムクルだったが、寛文年間には再び関係が悪化。寛文8年(1668)、オニビシがシャクシャイン側に殺されるという事件が起きる。
これにより、以前より松前藩に近いシュムクル側は報復を決意。
松前藩に武器、兵糧の援助を求める。
しかし、松前藩はこの対立が、やがて和人(日本人)を巻き込む戦いにまで拡大することを以前より恐れていたため、この申し出を拒否する。
そして、まったく偶然だが、シュムクルの使者は松前藩からの帰路病死してしまう。
ところが、これが松前藩の毒殺によるものとの噂が広まった。すでにアイヌには、不当な交易や搾取等で和人への不満がたまっていたから、この噂が信憑性を持って広まったのだろう。
この出来事によって、倭人への怒りが爆発することになった。
メナシクルとシュムクルは争いをやめ、シャクシャインがリーダーとなり、蝦夷全域のアイヌ民族へ、ともに松前藩と戦うよう協力を呼びかけた。
ついに、松前藩が恐れたアイヌの、和人への争いが始まったのだ。
1669年(寛文9) 6月、シャクシャイン指揮の下、アイヌ側は蜂起する。
これがシャクシャインの乱である。
松前藩は幕府へ援軍を要請。幕府は東北諸藩へ支援を命じ、事態の収拾に努めた。
アイヌの蜂起は各地で起きたが、幕府側との物量の差はいかんともしがたく、アイヌ側は次第に追い詰められてゆく。
アイヌ側にとって痛かったのは、渡島半島のアイヌとの連絡を分断され、協力が得られなかったことが挙げられる。
さらに松前藩は、幕府や東北諸藩の援軍により、多数の鉄砲を用意できたことがいっそうアイヌ側に打撃を与えた。
戦況が不利になる中、シャクシャインはシベチャリ方面まで撤退、奥地での長期戦に備える。
松前藩は戦いの長期化を恐れ、シャクシャインに和睦を申し出た。シャクシャインは一度これを拒否するが、息子の勧めもあり、最終的に応じることにした。
シャクシャインは和睦のためピポク(現在の新冠町)の松前藩陣営を訪れる。
しかし、これは松前藩の罠だったのだ。
酒宴の場にはひそかに武士達が控えていて、ついにシャクシャインは殺されてしまう。
1669年(寛文9)10月23日のことである。
この時、シャクシャインとともにピポクで殺害されたアイヌは74人とされている。
リーダーを失ったアイヌ軍を松前藩は間髪入れず攻撃する。
翌日にはシャクシャインのチャシも焼き払われる。こうして、蜂起は次々と鎮圧されていき、約4ヶ月に渡るシャクシャインの乱は終わった。
この戦いの後、松前藩は蝦夷地の支配地域を拡大し、同時にアイヌを次々と支配下に治めてゆくことになる。
シャクシャインの乱は、太平の世が始まっていた時代の大規模な争いであり、近代に日本で起きた異民族同士の戦いなのだ。
忘れてはいけない史実としてここに紹介しておきたい。
山口敏太郎
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