●更新日 02/18●


護法救民の宝!明智光秀=天海が残した埋蔵金の謎


「護法救民の宝」といわれる明智光秀の埋蔵金がある。

財宝の名前としては不思議な呼称であるが、もともと明智光秀が仏法を信じ、人道的な人物であったからこの名前がついたと言われている。
一説によると、光秀が本能寺の変を起こしたのも、仏教を弾圧した信長の残酷さに幻滅したからで、死んだとされる光秀は影武者で、その後は天海と名を変え、僧侶として戦で死んだ人々を弔い、家康に協力して早く平和をもたらせようとしたといわれている。(一方で、比叡山焼き討ちの際、最も僧侶を惨殺したのは光秀の軍だったとも言われている)


伝奇小説での天海聖人はダーティなイメージがつきまとい、江戸の結界を貼るなど怪僧のイメージが強い。だが、この「護法救民の宝」伝説では天海は仏法により民衆を救済するという志を持ち、光秀として武将時代に築いた財産や、もしくは天海として以後に得た財産を世のため人のために使おうとしたらしい。これほど、イメージが様々伝わる人物も珍しい。

また隠し場所の有力地は光秀の城であった亀山城跡、縁の寺である慈眼寺であり、実際、この伝説を裏付けるような古文書が発見され、財宝を探した人物もいたらしいが、結果は失敗したらしく真相は不明である。
また武田信玄・上杉謙信などにも埋蔵金伝説がある。武田信玄は日本で初めて金貨を造り、金脈開発集団「金山衆」を抱えた。この金山衆、平時は金脈の発見作業に従事し、
戦の際には工兵として城の石垣を崩したり、敵の井戸の水源を絶ったり、敵の城内に至る地下道を掘るなどの活躍をしている。まさに武田軍の強さは「金」ありきが前提条件であった。


また、軍用金は甲斐の各地に隠したといわれ、有力名候補地が現在甲州市塩山にある黒川金山で最盛期には1000人以上の坑夫がおり遊郭まで存在した場所で、信玄にとって重要な資金源だったところである。幕末にはこの地を旅行で訪れた夫婦が、偶然埋蔵金を発見したが、何者かに惨殺されるといった逸話や、明治の終わりには金山近くの谷で転落死した男の遺体の脇にあった荷物から金の延べ棒10本と、水に濡れて判別出来ない一冊のノートが発見されている。

どうやら、この男は信玄の埋蔵金を発見し、一部だけ持ち出したものの、非業の最期を遂げてしまったと推測されている。
かっての黄金の国・ジパングと呼ばれたわが国の地下に、まだまだ未知の埋蔵金が眠っているのかも知れない!?





山口敏太郎



◇上記のタグを自分のサイトに張ってリンクしよう!


探偵ファイルのトップへ戻る

前の記事
今月のインデックス
次の記事