
東日本大震災で大被害を受けた当時の宮城県気仙沼市風景
2011年3月11日14時46分にマグニチュード9.0(日本観測史上最大)の地震が発生し、巨大な津波が東北・関東の太平洋沿岸を襲い、死者・行方不明者は約2万を超え、宮城県気仙沼市も大被害を受けました。
大震災を受けた気仙沼市に住む60代女性
「いつも通りに暮らしていた場所が、次の日には跡形もなくなってしまう。あの光景は一生忘れません」
東日本大震災から10日が経った頃、宮城県気仙沼市立階上中学校の卒業式にて、卒業生代表の梶原裕太君が答辞で、「どんな苦境にあっても、強く、たくましく、そして助け合って生きていくことが、これからの私たちの使命です」と涙ながらに力強く読み上げました。
あの日、海は、町も思い出も、そして未来さえも奪い去るかのようでした。
それと同時期に、全てを失いかけたその瓦礫の町で、産声をあげて生まれた命、生後まもなく起こった大震災のなかで、生き続けてくれた小さな生命がありました。
あれから15年。その子ども達は、今年同じ中学校の卒業式に立っていました。
かつては守られるだけだった小さな手が、希望とともに大きくなり、その手で卒業証書を受け取り、本当は歌っていたはずの亡くなった子ども達の想いを背負って、卒業の歌を歌いました。
今年、階上中学校の卒業生代表の三浦瑠々さんは、「震災のあの日、私たちを命がけで守ってくれてありがとう。これからはわたし達が誰かに伝える懸け橋となります」と語りました。

梶原裕太君が語った「命の大切さ」は、あの日の言葉で終わらず、今年卒業した子ども達の中で確かに続いていました。
絶望の中で語られた言葉と、絶望の中で生まれた命。
この二つの物語が、一本の線でつながり、今、同じ場所で静かに重なり合い、「人を想い、助け合って、命をつなごうとする意志」を受け継いでいました。

復興が進んだ現在の気仙沼市街地と気仙沼湾
あのとき絶望の中にいた人々が、 必死に守ったもの――それは、この子たちの「今日」だったのかもしれません。

探偵エックス
ドライブ・心理学・音楽・酒好き探偵
