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『インサイドヘッド』岡田斗司夫

昔から、自分の心の中でおきる葛藤を「脳内学級委員会」と呼んでいる。
脳内学級委員会には、いろんなヤツがいる。
とにかく、目の前の欲望に邁進(まいしん)しようとするヤツ。
周りの目ばかり気にして、気を使いまくるヤツ。
プライドが高く、自分は偉いと思いたがるヤツ。
損得を計算して、少しでも他人より得をしようとするヤツ。
全員の意見を調整する学級委員長的なヤツ……

僕が夜中に「つい」ポテチを食べてしまうのは、他の奴らが寝てたり、疲れてぼんやりしている隙をついて、「目の前の欲望に邁進しようとするヤツ」が強行採決してしまった結果だ。
そのあと反省するのは、うっかり寝てしまった学級委員長で、結局ポテチに邁進したヤツは反省しない。
だから、同じことが繰り返されてしまう。

ピクサーの新作「インサイド ヘッド」の宣伝を見たとき、この映画はきっと「脳内学級委員会」を映画にした作品に違いない。
まるで僕のための映画じゃないか。これは見なければ!
勝手に、そう意気込んでいた。

脳内学級員会は、『脳内ポインズンベリー』という邦画で、すでにまんま、描かれている。
どう違うのか。正直、そこも気になった。
『脳内ポインズンベリー』は、同名の少女漫画が原作で、今年5月に公開された恋愛映画だ。
ヒロインは、三十歳の大台にのって気持ちがゆらいでいる独身女性。現在、彼氏もいない、いわゆる干物女だ。
そんな彼女が、年下のクリエイターでイケメン男子に恋をしてしまうところから、物語は始まる。

恋をすると、彼女の脳内では、恋愛会議が開かれる。
すぐネガティブなことばかり言うヤツ、逆にむりやりポジティブな意見を言うヤツ、ロマンチックで子供っぽいヤツ、それを調整するヤツ……
そんなヤツらを実際の俳優たちが、それぞれそれっぽく演じて見せてくれる。
まさに、「脳内学級員会」だ。

せっかくうまくいきかけたイケメンと別れ、仕事で支えてくれた身近な男性と、また新しい恋が始まるかも? というラストで終る。
恋愛映画としてはよくある話だが、「脳内の会議を実際に映像化したらどうなるだろうか」というワンアイディアものとして成功していた。

さて、『インサイド ヘッド』も、同じようなものなのか。
実際に見てみると、嬉しい事に、おもいっきり期待を裏切ってくれた。
まず、人間の脳内には、5人のキャラクター『ヨロコビ』、『イカリ』、『ムカムカ』、『ビビリ』、『カナシミ』がいる、という設定になっている。
日本人の感性で考えると、『ムカムカ』と『怒り』が別というのはちょっと不思議な気がする。
『ムカムカ』と『怒り』は同じ種類の感情で、どれくらい外に出すかだけの差の気がするからだ。
かわりに、『照れ』『恥ずかしさ』を入れる方が、しっくりくる。

それはともかく、脳内学級会は、5人のキャラクターの脳内感情会議として描かれる。
普段は、話し合ってどのキャラが主導権を握るか決めているが、対立するとコントローラーを奪い合うこともある。


***********以下は、『インサイドヘッド』ネタばれあり注意*****************

主人公は11歳の少女ライリー。
脳内は、ものすごく広い空間として表されている。真中にコントロールタワーが高くそびえ立っていて、そこから四方八方へ向かって、細い架け橋が何本も伸びている。その先には記憶の島が、ポツンポツンと空中に浮かぶように存在している。
「性格を形作る大切な思い出」が、家族とか、友情とか、アイスホッケーといった記憶の種類ごとにまとめられて一つの島を作っている。関係がある出来事と出会うたびに、その島全体が活性化する。

色々な思い出は、メモリーボールとして保存される。
アイスホッケーで胴上げされたという経験をすると、メモリーボールが作られ、「アイスホッケーの島」に送られ、島に保存される。
メモリーボールは、ヨロコビの記憶なら黄色に、イカリの記憶なら赤に、カナシミの記憶なら青に・・・とそれぞれの感情の色で輝いている。

ところがあるとき、ヨロコビの黄色に輝くメモリーボールに、カナシミが触れると青くかわり、嬉しかったはずの記憶が悲しい思い出にかわってしまうという大事件が起きる。
そこから、人間にはなぜネガティブな感情が必要なのか、という大きなテーマが描かれる。

恐れとか、怒り、悲しみというのは、味あわなくてすめばすむほど、より幸せな人生という気がする。
だからどの親も、自分の子供にそういう気持ちを味あわなくてすむように気遣いながら育てている。
子供にはカナシミなど不要。まわりに関係なく、自分が楽しいことだけやっていればよい。
しかし、その楽園も大人になる過程で消える。
映画内では、カナシミがメモリーボールに触れて、嬉しい思い出がカナシミ色に変わると表現されている。
そうすると、毎日笑っていられなくなる。
かつては、両親が大好きで両親に好かれようと、明るくふるまう子供だった主人公も、映画の最後では、両親に口ごたえする反抗的な子供になる。

このプロセス・思春期を経て子どもはおとなになる。それは「困ったこと」でも「乗り越えなければならない問題」でもない。
それこそがあたりまえの「成長」なのだ、という力強い主張が、『インサイド ヘッド』で描かれているテーマだ。

これはすでにディズニー映画ではない。
「正しい」ディズニー映画なら逆になる。
大人になってすべての記憶に「カナシミ」が入ってしまった主人公が、子供の頃の「100%のヨロコビ」を取り戻す、とかそういう話になったはずだ。

しかし「カナシミ」「ヨロコビ」「ムカムカ」などの感情が複合しているからこそ人生には価値がある。
宮﨑駿が、試写をみたあと立ち上がって拍手したそうだ。
「なるほど、これは拍手するだけあるわ」というくらいおもしろかった。

ピクサー/ディズニーは、それまでの子供向け映画では常識だった枠を、どんどん壊しつつある。
『アナと雪の女王』では、女の幸せは恋愛ではないと言い切った。
『インサイド ヘッド』では、自虐や思春期を大肯定した。

ただ、ものすごく残念なことがある。
僕は『インサイド ヘッド』をわざわざ、字幕で見に行った。
というのも、アナ雪の時から、ディズニーアニメの吹き替えが大嫌いになったからだ。

日本人の俳優さんが、日本語に翻訳した歌を歌う。
それ自体は良い。

でも、Let it goを、「ありのまま」にと訳しているのが、ありえない。
Let it goは、ありのままでではなく『放っておいて』という意味だ。
女性は社会的であることを強く意識して、まわりに協調しながら生きざるをえない。しかしヒロインが「もう私のことは放っといてくれ」と高らかに歌うところに、カタルシスがある。ディズニー映画の挑戦なのだ。
それを、まるで人間の本来の生き方のように「ありのままに生きる」と表現してしまっては意味が逆になる。せっかくのディズニーの挑戦も台なしだ。
アナ雪は字幕で見られて本当に良かった。

『インサイド ヘッド』のCMでは、ドリカムの歌う日本語版のテーマ曲『愛しのライリー』が、流れまくっていた。
あんな日本語の曲を、劇場で聴きたくはなかった。
『インサイド ヘッド』は、ミュージカルですらない。
当然、ドリカムが歌っている曲は、本編では出てこない。
だから何が何でもあの曲を聞かずにすませたいと思っていたので、字幕の映画館を探したのだ。

ところが、探してみると字幕版を上映している映画館が本当に少ない。
公開映画館の1/4程度。日本ディズニーはそれぐらい「吹き替え推し」なのだ。

僕は、負けずに探して字幕版を見に行った。
これであの曲を聞かずにすむ。

そう安心したのは間違いだった。
予告編が終わって、おまけについている短編映画のあとに、いきなりドリカムの曲がかかったのだ。
「これはあなたの頭のなかの話ですよ」という、ネタバレな歌詞!
アニメの中身を、きれいごとでゆがめようとする内容!
アナ雪の成功に味を占めて、この曲もヒットチャートにのせようという姑息な戦略!
逃げられない映画館という場を選ぶ、卑怯な発想!
僕の脳内は、『イカリ』で真っ赤になった。


本編が始める直前でも、気分はマイナス百点だ。
心は『カナシミ』で青くそまり、見に来たことを後悔した。

幸いにも前述の通り、映画は超名作。
見終わった時は、ちゃんと百点満点の気分になっていた。
あの歌さえなければ、120点だったのに、と思うと、いまだに『ムカムカ』が止まらない。

 

岡田斗司夫

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