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『終戦記念日だから、児童ポルノについて考えてみた』岡田斗司夫

終戦記念日近くになって来ると、原爆投下の話とか、第二次世界大戦に関する話題があちこちで取り上げられる。
最近は『永遠の0』がらみの話題も多い。

『永遠の0』は、百田尚樹のベストセラー小説を、『ALWAYS 三丁目の夕日』の山崎貴監督が映画化して、邦画史上に残る大ヒットになった作品だ。
『永遠の0』では、カミカゼ特攻隊が描かれている。
この特攻隊について、現在の日本での評価は、大きく分けると2つに要約できると思う。

一つは「昔の日本は良かった」という主張。
今の価値観をものさしにして、過去の事件を裁くのは間違っている。
当時の日本人の心情や価値観を考えた上で議論するべきだ。現に自分たちのおじいさんたちが、日本を守ろうとしてやったことなのだ。
それを今さら「あの頃の日本人は、全員気がおかしくなっていた」と断罪するのはいただけない。
これは、百田さん自身が『永遠の0』の中でも語っている主張だ。
マンガ家・小林よしのり氏の主張も、このあたりであると思って間違いない。

もう一つは、戦争“絶対反対派”が言う主張。
特攻に行って生き残った人たちに、実際にインタビューして証言を集め、「そこには何の美学もない」「上官に強制されただけだ」と結論づける。
特攻を、あくまでも恐ろしい、間違ったこととして捉える価値観だ。

この2つの価値観には妥協点がない。
互いに意見を出し合い、どんなに話し合っても決着はつかない。
こういう決着がつかない話し合いの場合、僕は「考え方の補助線」を引いてみることにしている。
補助線とは、幾何学用語だ。
図形のある点から別の点に直線を一本引き、角度や図形を2つにわけると、急に問題がわかりやすくなるという手法だ。

今回の議論で、補助線として僕がおすすめするのは「児童ポルノ」。

現在、日本では18歳未満の女性を使ったポルノは、所持すること自体が法律で禁止されている。
今のところ、マンガなどの絵画表現も含まれていないが、かなりギリギリのところまで議論はきている。

しかし、江戸時代の日本では、10代前半の女子イラストがエロの題材にされるのは、ごく普通のことだった。
10歳とか11歳の少女が、シースルー(紗)の着物をまとっている浮世絵など、当たり前に流通していた。
高尚なものとか、ほほえましいものではなく、明らかにエロ目的のイラストだ。

つまり、日本人というのは、昔から児童ポルノを好む民族だったと考えられる。
「児童ポルノは日本の古典文化として認めるべきだ」という主張も可能だろう。

もちろん、反論は簡単だ。
グローバリゼーションという考え方がこれからの日本では必要だ。世界共通の価値観に照らして考えるべきだ。
昔の価値観は捨て、いわゆる児童ポルノに近い絵画の所持を禁止すべきだ、という主張も、もちろん可能だ。

さて、この補助線を使って、特攻隊をどう捉えるか問題を考えてみよう。
近代的な人権意識よりも、昔からの日本文化や価値観を認め、守っていこうというスタンスなら、特攻も児童ポルノも肯定派となる。
反対に、人権意識やグローバリゼーションの波に乗るべきだと考えるなら、特攻も児童ポルノも否定派となるはずだ。

僕が気になるのは、なぜか現実はそうじゃないところだ。
昔の日本を賛美して、特攻を肯定している人のほとんどが、児童ポルノに反対している。
どっちやねん!
と、その整合性のなさに、イラっとする。

昔の価値観を賛美して特攻を肯定するなら、児童ポルノも賛成するべきだだ。
過去の日本文化の中で、自分が気に入った部分だけ「昔の伝統」「日本の美しさ」とか言って肯定しておきながら、自分が気に入らないものは「これからはグローバリゼーションだ」といって否定し、変えようとする。

一般人ならともかく、政治家や文化人がそういう矛盾した主張をして、平気で僕達の生活に規制をかけてくるのには腹が立つ。
卑怯だ。
少なくとも、公人として発言する場合は、立場と思想を統一して発言してほしいと思う。

 

岡田斗司夫

 

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