去る6月4日、「札幌ススキノ・頭部切断殺人事件」の傍聴で札幌地方裁判所を訪れた。
筆者はこの事件の被告人一家である田村修(父)、浩子(母)、瑠奈(娘)を「機能不全家族」であると考えている。「機能不全家族」(Dysfunctional Family)というのはとうに瓦解した家族が、権力や暴力の行使によってかろうじて残存している状態。田村一家の場合、瑠奈被告人の権力支配下に両親が置かれていた。
小学校の卒アルより。
主犯の瑠奈(無職)は、母・浩子(主婦)を「奴隷」と、父・修(精神科医)を「ドライバー」と、それぞれいい、自身を「お嬢さん」と呼ばせていた。母・浩子は誓約書を書き、瑠奈の「奴隷」として生きることを誓っていたという。
誓約書
「お嬢さん(瑠奈)の時間を無駄にするな。私は奴隷です。オーダーファースト」
「奴隷の立場をわきまえて無駄なガソリン、お金を使うな」
母・浩子は、顔色が悪くメガネの奥の瞳は常に涙ぐんでいるように見えたが筆者のみたところ顔立ちの整った品のある女性であった。母・浩子は瑠奈を「叱ることなく欲しいものを全て買い与えて育てた」という。20代後半になった瑠奈は父・修に、24時間365日、瑠奈被告人の「遊び」の送り迎えを命じ、そればかりではなく、父・修を、のちに殺害後に頭部を切断することとなる被害者Aとするための「SMプレイ」の練習台にしたり、妊娠を予防するためのピルを処方させたり、瑠奈の架空の夫である「ジェフ・ザ・キラー」と瑠奈の、妄想上の結婚儀式に加わらせたりもした。母・浩子は声を詰まらせながら泣いていた。
父・修氏 本人のfacebookより。
そして「機能不全家族」の末路が「頭部切断殺人」という猟奇事件の形で訪れた。母・浩子は、「おっさんの頭部を持ってきた」と打ち明けられ「見て」と命ぜられた。言われるがままに自宅浴室に置かれた被害者Aの頭部を目の当たりにしたという。
殺人事件の実におぞましい詳細はここでは省略することとし、代わりに親子関係と家族の意義について考えてみたい。
筆者も母親である。親のすべきことは、親が亡き後も子どもが自立し、彼(女)なりの幸せを見つけて生きていけるように、子どもを成熟した人間に育てあげることだと考えている。過度に子どもに勉強を強いることや、モノや自由を与えること、縛り付けることでは、その目的を達成できまい。子どもが自分を信じて生き抜いていくには、どのような境遇に置かれても折れない心が大切だ。それが育つよう、ときに厳しく、ときに優しく、無償の愛情をもって接することこそが親の義務だ。
とはいえ筆者自身も日々反省を繰り返す。ある意味ではマヌケな母親である。ただ、母の至らなさを子どもが認識することによって、子どもなりの学びや自覚が育まれるという一面も否めない。親も子どもと一緒に成長するのだと捉えれば、今、この瞬間に親が完璧である必要はない。だからこそ私が瑠奈の両親に言いたいのは、娘の感情や意見に対して共感し、理解しようとする姿勢を持つことと、子どもの命令に従属することは別個だ、ということだ。両親亡きあとの娘が不幸になるような家族関係だけは避けるべきであった。
堺 浄、札幌地方裁判所にて。
女探偵 堺浄(さかい・きよら)
政治家を経て、生成AIやITを駆使し過去の事件を分析する女探偵に。社会科学領域の研究者(慶應義塾大学大学院を経てPh.Dr.)でもある。掘り下げたいテーマは、女性はなぜ政治の世界で「お飾り」になるのか、日本の「タテ社会」と「ムラ社会」は不変なのか、内部告発は組織の不条理に抵抗する最終手段なのか。