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『ファッションとSNSの進化は共通している』岡田斗司夫

ファッションは進化する。
『理由なき反抗』でジェームズ・ディーンがジーンズとTシャツ姿で登場したとき、アメリカでは一大センセーションが巻き起こった。
当時、下着であるTシャツで登場したことが強烈だったのだ。

ファッションの歴史とは、前の時代では下着だったものを、アウターとして着てもOKになるという繰り返しだ。
「インナーはアウターへ」という方向に、常に進化が繰り返されている。

ヨーロッパの貴族が着用していた正装は、裾の長い「フロックコート」だった。からだ全体をすっぽり包んでしまうデザインだ。
このフロックコートでは馬に乗りにくい。というので改良されたのが、裾の前を短く、後ろを長くし、長い裾の真ん中にスリットをいれて動きやすくした「燕尾服」や「モーニングコート」だ。
今まで見えなかったズボンの前の部分や、ベストのあたりが、かなり見えてしまう。フロックコートから比べると、かなりお下品で露出高め。これも「インナーはアウターへ」という進化だ。

時代は流れ、結婚式などでは、今でも正装としてモーニングコートが着用されているが、もう日常生活で着られることはなくなった。
このモーニングコートのしっぽの部分を切り落とし、略式にしたのが、いわゆる背広。いまではスーツと呼ばれているデザインだ。
ビジネスシーンでの「ちゃんとした服装」として、重宝されている。これまた「インナーはアウターへ」という進化。

元を正せば、Yシャツというのも下着だから、本来見せるものではない。
近世ヨーロッパを舞台に撮り上げた『バリー・リンドン』という映画では、男性は長い上着を着て、襟と袖のはしから、ドレスシャツのフリルをのぞかせている。
現在のような、VゾーンからYシャツが見えているなど、ありえないスタイルだったのだ。
もちろんTシャツなんて、もっとありえない

数年前、女の子のファッションで、キャミソールやビスチェを見せながら歩くというのが、流行ったことがある。
過激だとか世紀末という人もいたけど、決してそんなことはない。
ファッションの進化、「インナーはアウターへ」という進化の流れで考えれば、実に正しい。内側に着ているものを、外側に出してみせる、という方向に進んできたからだ。

と、ここまではファッションに興味のある人なら、だれでも知っている事実だ。
さて、ここで、SNSの進化の話をしたい。

SNSの進化を「自分自身のどんな部分をどう見せるか」という方向で考えると、ファッションの進化と同じものがあるように見える。
「インナーはアウターへ」という進化。
つまり、心の奥にかくしていたものをより外に見せる、という進化が、ここ数年間で繰り返されていると思うのだ。
個人用のSNSとは、最初はホームページだった。
お店が看板やメニューを見せるように、私はこういうことを考えています、ときちんと考えたものを整理してあげるのがホームページだった。
更新だってめったにしなかった。

その一部に、ブログが組み込まれるようになった。
ブログとは日記だ。ホームページのように「まとまった考え」を書き起こす場所ではない。それよりも「毎日、思いついたこと」が書かれている日記がもてはやされるようになった。
ブログの時代がきて、日記や雑記のような「結論がないもの」を、毎日のごとく掲載するのが、当たり前になった。

次に来たのはmixiのようなソーシャルメディアの時代。まるで雑誌の連載のように、日記の一部や、グチを書き合うようになった。
Twitterの時代になり、思ったことを、思いついた時に、すばやくつぶやいて、シェアするようになった。
そしていまはLINEの時代だ。
つぶやきがスタンプにまで簡略化された。
自分の心のなかに浮かんできた感情を、言語化しないまま画像として表すようになったのだ。

これは、ファッションの進化と同じだ。
前の時代では「人前にさらすものではない」「見せるなんて恥ずかしい」と考えていたものを、堂々と見せるようになる。
「心のインナーをアウターへ」という方向に進化を続けているのだ。

そういうふうに考えると、SNSの「次世代」には何がくるか、ぼんやりとした方向性の予想はつく。
いま流行っているLINEよりも、さらに内面をそのまま出せるメディアになるのだろう。

自分の感情や衝動を、「スタンプ」などのイラスト処理で選ばなくても、さらに直接的に伝える方法。
いったい何をさらけ出すようになるのか、具体的なものは、僕も想像がつかない。
だけど、おそらく最初は、「なぜネットでわざわざそんなこと?」と思うような「かる~いノリ」なんだろうな。

 

岡田斗司夫

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