日本人は過去の遺産を守る意識に乏しい民族だと思う。
新しい文化が到来すると、それ以前の文化はあっさりと捨ててしまう。
近代では文句無く日本一の文化遺産である軍艦島もまた、同じ運命を辿ろうとしている。
明治3年から、炭鉱の町として拡張を続け、大正5年には日本初の鉄筋高層アパートも建造された。
東西160メートル、南北480メートルの島内には神社、幼稚園、小中学校、病院、警察、マーケット、パチンコ、マージャン、ビリヤード、映画館、歯医者、床屋、メガネ屋、バーなどがひしめき、最盛期には5300人もの人々が生活していた。
高層アパートは隙間無く建てられ続け、人口密度は文句無く日本一だった。
1974年(昭和49)1月、炭鉱の閉山と運命を共にして、4月25日に無人島になった。
石炭で栄え、石炭で滅んだ島。だが、今となってはそれが問題では無い。
30年間、時が止まったまま。
平地ならば、他の炭鉱の町と同じように跡形もないだろうが、四方を海に囲まれているという悪条件が逆に幸いして、木造などの建造物を除き、街の原型を何とか留めている。国が文化遺産に指定して手厚く保護をすれば、あと数十年後には立派な世界遺産になるはず。
幾多の場面が織り成す光と影。その生き証人とも言えるこの街を、このまま朽ち果てさせてもいいのだろうか?
政府は、補強工事や復元予算を、なぜ捻出しようとしないのか?
大正、昭和のロマン溢れるこの街を、どうか後世に残して。
まだ、間に合う。
昭和46年7月(長崎・野母崎町郷土資料館より)
耳を澄ませば
子供達の声が聞こえた
母親が夕飯の支度を済ませて
公園のわが子をベランダから呼んだ
この場所で
また会えるね
(同、郷土資料館)
ー つづく ー 撮影・文 BOSS